短編集46(過去作品)
結婚した時の伸江は、人生に疲れていた。学生時代には、看護学校で勉強し、看護婦を目指していたのだが、卒業するまではよかった。無事看護婦免許を取得し、将来を嘱望されたように思っていた。しかし現実はそれほど甘くない。
赴任した病院は大病院で、忙しさは想像を絶していた。勤務が驚異的なスケジュールで組まれ、勤務時間のすべてに集中力を高めていなければならないところであった。そういう意味で伸江は運が悪かった。
だが、元々看護婦という仕事、伸江には向いていなかったのかも知れない。集中力を高めて仕事をしている間はまだよかった。少しずつ自分の中で疑問が湧いてくる。そこに隙ができてくるのも仕方がないもの。
ミスが目立ってくる。それまで感じなかった薬の匂い、さらには血の匂いと病院の匂いすべてが嫌になってくる。
――嫌というより、もう受け付けられないわ――
食事も喉を通らなくなり、一人思い悩むようになる。こうなれば完全なノイローゼだ。それからすぐに伸江は病院を辞めた。
元々の原因は、自分が受け持っていた患者の死だった。病院に勤務していれば、患者の死に携わることは必ずある。それを乗り越える自信はあったはずだ。あdが、結局乗り越えられなかった。向いていなかったとしか言いようがない。身体が受け付けられなくなってしまったのだから……。
誰が伸江を責められよう。誰からも責められることはない。だが、伸江は自分が人生の脱落者のように思えてくる。それまで持っていた自分に対しての自信は崩れ去ってしまった。
自分に自信が持てないと、看護学校を卒業することもできなかっただろう。患者の死を乗り越えられれば、後は順風に行ったと言えるかどうかは分からない。しかし、これも運命、一つの潮時だったのだ。
しばらくは放心状態の毎日だった。将来への夢も希望もなくなった。そんな時に現れたのが、前の夫だった。
何もかもが嫌になって、毎日を時間の流れに身を任せる生活だったが、それも慣れてくると嫌ではなくなっていた。
――刺激が何もない生活――
それはそれでいいのだが、身体の寂しさを感じるようになっていったのだ。
――精神と身体がアンバランスになっているんだ――
精神では癒しを求め、身体は刺激を求めていることを指摘してくれたのが、前の夫だった。
最初から結婚する意志などなかった。ただ身体の刺激を与えてくれる彼がいてくれればそれでよかったのだ。結婚は完全に成り行きだった。自分の意志に関係なく、まわりから結婚という足場を固められ、ある意味逃げられなくなってしまっていた。そこに彼の企みがなかったわけでもない。
肉体的な刺激を与えてくれるには最高の男性だった。伸江にマゾの気があるということを分かっていた彼とは、肉体的な相性は合っていたに違いない。しかし、精神的には癒しを求めていた伸江に対し、精神面でも束縛を図り、絶対服従の精神を植えつけようとしていたのだ。
彼には精神面での癒しやゆとりなど許せなかった。身体から入った束縛を、いずれは精神面も支配することで、相手に絶対服従を押し付ける。そんな男だったのだ。
看護婦時代を思い出した。
――また同じことを繰り返そうとしているんだわ――
一方向しか見ることのできない伸江は、そのために看護婦の仕事ができなくなったことにその時初めて気がついた。新しい発見が自分にとってプレッシャーになることであれば、それをネガティブにしか考えられない。それが看護婦を続けていくことができなかった最大の理由だったのだ。
結婚するまで、精神と肉体とのアンバランスに悩んでいたはずだ。
――この人だったら――
と思って結婚したはずなのに、結局はすべてを支配される結果になってしまった。それも相手を一方方向からしか見ることのできなかった自分の浅はかさである。
毎日が苦痛だった。最初の頃に受けていた肉体的な刺激も、精神を拘束されるようになってからは、苦痛にしか感じられなくなっていた。
――苛められているんじゃない。暴力を受けているんだ――
自分から望んでいるのは「苛め」、相手の勝手な押し付けは「暴力」に繋がっている。
――いつまでこんな生活を続けていればいいの――
その頃にも馴染みの喫茶店を持っていた。いつも一人で窓際の席、誰と話をするわけでもなくただ佇んでいるだけ。人生の疲れを感じていた。
その店にもパネルに写真が飾っていた。山を描いた写真で、
――どうして私には山の写真のあるところが似合うのかしら――
ただの偶然なのに、似合うと思っていた。
人生に疲れている時というのは、もう一人の自分が疲れている自分を見ている光景を思い浮かべることが多い。それが一種の現実逃避なのかも知れないが、もう一人の自分はそんな伸江をずっと見つめている。
では、どの位置から見つめているというのだろう? 最初は分からなかったが、それはパネルの中からなのだ。少し高い位置から見下ろす形で見つめている。もう一人の伸江は山の中から見つめているのだ。
夢を見ているのかも知れない。人生に疲れていると、夢と現実の境目が分からなくなる。現実逃避が招く一つの現象なのだろうが、その時は中学時代に思いを馳せているのかも知れない。
――いなくなればいいのに――
誰に対しての思いなのか分からない。だが、その時にそう感じたのは間違いなかった。
離婚したのは、それから三ヶ月が経ってのことだった。言い出したのは意外にも夫の方だった。
理由があるわけではない。ただ離婚したいと言い出した。それは伸江にとっても願ったり叶ったりで、とんとん拍子に離婚が成立。二年間の結婚生活だったが、離婚してしまうとあっという間だったように思う。
望んだ離婚であったが、思った以上にエネルギーが必要だった。
「離婚は結婚の何倍ものエネルギーを使うって言いますからね」
と離婚した人から話を聞いていたが、まさしくその通りだった。理由は何であれ、離婚にはエネルギーが必要なのだ。スッキリしたというのが本音だが、疲れだけしか残っていないのも事実だった。
――もう二度と結婚なんてしないわ――
と思ったのも束の間、しばらくして知り合った利一に対し、結婚を意識し始めた自分が信じられなかった。
――彼は芸術家なんだ――
前の夫とはまったく違う。人を支配することしか頭になかった彼は、芸術などまったく似合わない男だった。相手を罵倒し、拘束し、そして弄ぶ。ただそれだけだったのだ。
肉体的な刺激を与えてくれていた時でさえ、
――何かが違う――
と思い始めていた。
――何も考えずに肉体だけを委ねていたかったはずなのに、どうして考えが浮かんできたのだろう――
不思議で仕方がなかった。精神と肉体を別物と考えていたはずなのに、そこで考えが浮かんできた瞬間に、肉体的な刺激は現実へと引き戻されてしまったに違いない。
――所詮、肉体と精神の分離なんて私にはできないんだ――
と、伸江は感じた。そのことでがっかりするかと思いきや、意外とホッとしている自分がいる。そのことに気付かせてくれた利一との出会い、伸江には嬉しい限りだった。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次