短編集46(過去作品)
それは三年間、三回とも同じことを感じた。当然、実際に登ってみると確かになかなか頂上に行き着けず、その場所が本当に半分であったことが分かる。
頂上に登りきると、下界は見えてくるのだが、中間地点の平原を見ることはできない。四方八方を見ることができる頂上なのにおかしなものだ。少なくとも、平原から見えていた、
――手に取るように分かったと感じた頂上――
とは一体何だったのだろう? 不思議でたまらない。
喫茶「オルゴール」で昼下がりに佇んでいると、小学生時代の音楽の先生の顔と、中学の時の登山での中間地点だったすすきの平原が思い出された。もちろん、喫茶店というと、小学生の時の思い出にある壁に掛けられた山間の道のパネルをイメージしてしまうからに違いないのだが、それよりも、昼下がりのほのぼのとした気分に、すすきの穂が風に揺れている光景がダブって感じられるからだろう。
「まるで原始時代にタイムスリップしたみたいだな」
というセリフが思い出される。
その場所は何十年、何百年、何千年と、まったく開発されずに、その場所に佇んでいたのだ。見えるものといえば山の頂上、下界が見えるわけではない。そんな山の上ばかりを見ながら経っていった時間というのはどのようなものなのだろう? 伸江はオルゴールを聴きながら、遠い過去に思いを馳せていた。
――自分の中学時代もなかなか思い出せないことも多いのに、さらに昔に思いを馳せるなんて――
そう考えると面白いものだ。考えてみればオルゴールの音色を聞いていると、気分はなぜか大正ロマンを感じてしまう。別に大正時代にオルゴールが渡ってきたというわけでもないのに、不思議なものだ。完全なる直感というものである。
オルゴールの奏でる音楽は、クラシックだったり、ジャズだったり、ポピュラー音楽だったりさまざまである。その時のマスターの気分によるものらしいが、伸江が現れる時は晴れの日が多く、ポピュラー音楽や軽音楽が多い。
本でも読みながらゆっくりできる気軽さが受けているのか、客は結構多い。だが、それも昼下がりは常連が多く、しかも常連客にはそれぞれ指定席があるせいか、いつも伸江の座る窓際は空いている。
窓際から見る表の景色も、店内の光景も初めて入った時から違和感はなかった。
「前から知っている店のようです」
とマスターに話すと、
「まるで人を好きになる時の感覚に似ているでしょう?」
という返事が返ってくる。まさしくその通りだ。
伸江はこの店に来ると学生時代の感覚に戻ることができる。すでに三十歳後半を迎えていた伸江は離婚暦があり、実際の初恋を思い出そうとしても、なかなか思い出せないでいた。
しかし、それも雰囲気が変われば思い出せることを知ったのは、この店に来るようになってからである。喫茶「オルゴール」は誰にでもレトロな気持ちにさせることのできる店であり、さらに一人一人の思い出をその人に掘り起こさせる雰囲気を醸し出させるに十分な店であった。
離婚してからというもの、最初の頃は昔のことを思い出すのも嫌で、先を無理してでも見ようとしていた。そうでもしないと押し潰されてしまう気がしたからだ。
だが、そんな無理をする必要など何もない。強引に自分から仕向けることは、自分にとって意味のないことであることに気付かないのは、強情な自分を見つめていないと崩れていく自分を想像してしまうからに違いない。そのことは気持ちに余裕を持つことで簡単に解消できるはずなのに、余裕という言葉をどこかに忘れてきたのだから始末に悪い。離婚に使ったエネルギーが伸江に余裕という言葉を放棄させてしまったのだ。
マスターは伸江に離婚暦があるのを知っている。知っていて、
「まるで人を好きになる時の感覚に似ているでしょう?」
というのは、いかにもマスターらしい。言った後の表情に余裕が満ちて見えるのは、今までにかなりの苦労をしてきている人だという証拠に違いない。
伸江には、今付き合っている人がいる。名前を利一という。付き合っているというほど親密かどうか分からないが、まわりは付き合っているように見えるだろう。自分が臆病になってきていることに伸江は気付いていて、人と一緒にいても充実感を与えてくれる人が本当にいるのかが分からないため、どうしても付き合っていると言い切れない自分がいる。
相手の男も分かっているのかも知れない。もちろん、身体の関係はある。自然な付き合いから自然な形での身体のふれあいから起こったことなので、後悔などどちらにもない。
――お互いが求めたんだわ――
これ以上の気持ちがどこにあるというのだろう。
だからといって、急にお互いが馴れ馴れしくなったわけでも、ぎこちない関係になったわけでもない。ごく自然な付き合いが続いているだけだ。
利一は絵を描くのが趣味である。学生時代には県のコンクールで入賞したことがあるくらいだそうだが、大学に入ると絵を描くのをやめてしまった。
「他に何か好きなものができたわけじゃないんだけど、しばらくは絵を描かなかったね」
と言っていたが、社会人になって三年目くらいからまた描き始めたようだ。
「やっぱり絵を描くって楽しいんだ。何よりも本を見て綺麗な景色などが目に留まったら、行ってみたくなるんだよ」
血が騒ぐとはまさしくこのことを言うのかも知れない。
山の絵を描くのが好きな利一は、登山の恰好に、キャンバスや絵の道具一式を持って電車で移動している。
「きっと絵描きには見えないだろうな」
と言って笑っているが、プロでもないのに絵描きに見られてしまうのは嫌なようだ。
「プロになるってもし言い出したらどうなっていただろうね」
「きっと皆反対するでしょうね」
「もし、その時に君が僕と付き合っている時だったら?」
「反対するでしょうね」
間髪いれずに返事をしたが、
――もう少しもったいぶった方がよかったかしら――
と考えていると、
「そんな君が好きなんだよね」
と言いながらキスをしてきた。利一と伸江はそんな仲だったのだ。
利一は芸術家だった。そんな利一と一緒にいると落ち着いてくる。しかし、あまりにも現実逃避が過ぎるところがあった。いわゆる世間知らずのところがあるのだ。
将来の話をすると言っても、それは妄想に過ぎないことが多い。芸術をしていると芸術のことしか先を見れないのかも知れないが、それでは伸江は満足しない。
別に結婚を焦っているわけではない。離婚した時に、
――もう結婚なんてしないわ――
と感じたからだ。しかしそれでも利一と出会い、
――この人となら――
そう感じた時を今でもハッキリと覚えている。
それまでは結婚を怖がっていたのではなく、男というものを怖がっていた。結婚するということは男と一緒にいることだ。少なくとも前の夫と同じような性格の男性だけは生理的に受け付けられない。
前の夫は事業家だった。自信家で、無骨で、相手の気持ちなどあまり考える方ではなかった。それだけに女性としては楽な面もあった。すべてを男性の方で決めて、女性はそれについて行くだけである。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次