短編集46(過去作品)
幸いにも自分を追ってくる人はいない。いるはずはない。そう思って歩いているのに後ろを意識してしまう自分。見失わないようにしなければいけないと言い聞かせていた。
言い聞かせていたにもかかわらず、運命の神様は何といたずらなことだろう。見失うはずのないところで見失ってしまった。角を曲がればその通りは、壁が続いている大きな屋敷が立ち並んでいるところである。安心してゆっくり曲がると、母親の姿は消えていた。
――ひょっとして角を間違えたかな――
と感じたが、それ以外に考えられない。とにかく二人を見失ってしまった。
気がつけば、西の空に夕日が沈み始めている。このままウロウロと探していて、もし両親のうちのどちらかに見つかったらどうしよう。言い訳はいくらでもできるが、言い訳ができるような精神状態ではない。今の自分のいる場所すら、本当に自分が知っている場所なのか不思議に思っているくらいだからである。
――まるで夢でも見ているようだ――
狐につままれたようだと言うたとえがあるが、まさにそんな感じ、さっきまでの高ぶった気持ちが急に萎えてきた。
とりあえずそれ以上探しても仕方がないので、そのまま家に帰ることにしたが、何となく収まらない気持ちがあるせいか、普段よりも家に帰りつくのに時間が掛かったように思えた。
――一体どの道を通って帰ってきたのだろう――
と思えるほどで、本当であれば三十分くらいで帰り着けるものが、時計を見れば二時間近くを費やしていた。
もっとも、二時間前というのは、母親の尾行を見つけた時間である。それから見失うまで、どんなに時間が掛かったとしても三十分も掛かっていないはずだ。その間に時計を見たわけでもなければ、時間を気にしていたわけでもない。だが、歩いた距離から判断すれば、時間的に二十分がいいところであろう。
そう考えれば帰ってくるまでに費やした時間の方が長く掛かったと考える方が、その時の綾子には自然だった。尾行をしている時の方が、感覚的にはしっかりしていたはずだ。一つのことに集中すれば時間の感覚が麻痺するという人もいるが、綾子は逆である。いろいろなことが頭を巡っている時の方が、時間的な感覚は圧倒的に麻痺している。
帰り着いてまずビックリしたのは、父が帰ってきていることだった。母はまだ帰宅しておらず、
「お母さんは?」
と姉に聞くと、
「朝出かけたっきり帰ってこないのよ。どこに行ったのかな?」
普段から買い物以外で家を空けることをしない母親にしては珍しかった。それだけに綾子の不安は募っていたが、姉はあっけらかんとしたものだった。
「たまにはいいいんじゃない? お母さんだって、一人で出かけたいって思うこともあるでしょう」
と、笑いながら話している。そんな屈託のない表情が姉のいいところで、それだけに姉にあまり相談できずに一人で悩むことの多かった綾子だった。
そんな姉に、さっき表で見た話ができるはずはない。しかも母が尾行していたと思っていた父は家にいるではないか。その日、父は非番だったようで、昼間父も出かけていたらしいが、帰宅したのは三十分も前だという。
――母が帰宅していないのは別の理由があるのではないか――
と思えてきて、さっき見た光景が本当に夢かも知れないと思うようになっていた。
しばらくして母が帰ってきた。クタクタに疲れ果てている母に、
「どうしたのよ。リフレッシュしてきたと思ったのに」
と、何も知らない姉は話しかける。それを聞きながら、
――あの時の光景を姉が見ていれば、掛ける声も違っていただろうに――
と思ったが、母の姿を見ると、またしても、
――やはりさっき見たのは母だったに違いない――
とさらなる確信を持った。
クタクタになっている後姿は、尾行していた女性の後姿に本当によく似ている。尾行中はクタクタになっているなどという思いを起こさせなかった。離れていても、実際に胸の鼓動が聞こえてきそうなほど、鬼気迫っている雰囲気に感じられたからである。
クタクタになった母は、
「ごめんなさい。少し眠たいの。一人にしてくれるかな?」
と言って、一人で自分の部屋に入っていった。すぐに寝付いてしまったようである。
見て見ぬふりをしているかのように見える父だったが、母が寝込むと、しばらくして出かけていった。時間的には夕方で、そろそろ日が暮れる時間である。
――どこに行くのかしら――
と思いながら父の後姿を眺めていたが、母と思しき尾行していた女性が見ていた後姿はまさしくその時の父と一緒である。
「後ろ姿って、結構誰かに何かを訴えているものらしいのよ。見る人が見れば気持ちが分かるらしい」
と、これまた友達から聞いた話だった。
――確かに追いかけたくなるような雰囲気を持った後ろ姿だわ――
ひょっとして、母親は無意識に父を尾行していたのかも知れない。あまり信憑性のない話ではあるが、そう考えると疲れ果てて帰ってきた理由も、父が先に帰ってきた理由も分からなくもない。ただ、問題はその時に母が何かを発見したかどうかということである。
あの疲れ方は尋常ではない。きっと何かを見たからではないだろうか。そのことを知らない父親、そして誰にも言えずに放心状態の母親、そんな構図が綾子の頭の中に浮かんでいた。
それから数日経ってからのことだった。父親の浮気が露見したのだ。
相手はどこかのスナックのママらしい。家にいる時の父親はあまり目立たず、いつも静かに新聞を読んでいるイメージが強かっただけに、綾子にとっては青天の霹靂だった。
母親にとってはどうだったのだろう? 意外と冷静を装っているが、その実、内心穏やかでないことだろう。しかし、なぜ冷静を装っているように見えるのか、それから数日後に姉から聞かされたことで分かった。
「お母さん、何となく気付いていたみたいよ。どうやらお父さんの後をつけて、決定的瞬間を抑えたみたいなの」
姉からすれば意外だったらしい。母親は引っ込み思案で、あまり自分から冒険はしない性格だと思っていたようだ。綾子とは逆である。
母親が父親の後を追いかけているというのを見たのは、今から思えば錯覚だったのだろう。
――どうしてそんな錯覚を思い描いてしまったのだろう――
と思っていたが、母親の性格から思い込んでいたのではないかと考えるようになっていた。母親は疑問に思ったこと、気になったことは自分の目で確かめないと気がすまない性格だと思っていた。それが少しくらいの冒険であっても、後になって気づいて後悔するよりも、よほどいいと考える性格である。
それは、綾子自身の性格に似ていた。だからこそ母親の行動を予知したのかも知れない。
――予知。そうだ、予知していたのだろう――
母親ならきっとするだろうという行動を自分の中で勝手に作って、それが予知に繋がったのかも知れない。
「それなら、もう一度予知をしてみろ」
と言われても、二度とできないかも知れない。もちろん、意識してできるものではないし、もし、自分の中に不思議な能力があったとしても、それは、何かのきっかけがあって、人生の中で数度、いや、たった一度だけかも知れないが許される力なのかも知れない。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次