短編集46(過去作品)
彼が話しかけてきたのは、視線を意識し始めて約一ヵ月後くらいだっただろうか。綾子はなるべく毅然とした態度でいたつもりだったが、さすがに一ヶ月近くも経つと不安が襲い掛かってくる。綾子も普通の女の子、男性の謂われない、しかも冷静沈着な視線に気持ち悪さが表に出ても仕方がないだろう。
彼が隣のクラスの生徒であることを知らなかったのは不覚だった。いつも綾子を見つめている視線では私服だからである。
――同じ学校だということを知られたくなかったのかしら――
と思うが、何のためか分からない。
「彼、素敵よね。隣のクラスの須藤君」
友達の聡子に言われて初めて彼のことを知った。聡子とは小学生の頃から何度か同じクラスになっていて、聡子も憧れを持っていたことはこのセリフからも分かる。
「でも、彼は小学生時代は背も小さくて、目立たない人だったのに、最近は女の子の間では密かにファンが増えているみたいなの」
と教えてくれた。聡子も小学生時代あまり意識していなかったのだろう。女の子の意識として、騒がれて初めて男性のよさに気付くこともある。それが綾子には、女性の一番嫌なところでもあるのだが……。
須藤誠、彼のクールさは、最近の男にはいないタイプで、女性が靡くのも分からなくもない。女性が騒いでいるのを横目に、
――俺は女性にキャーキャー騒ぐ女性は興味ないんだ――
と言わんばかりの態度に、女性はさらに惹かれるようだ。
彼の父親は警察官だという。正義感溢れる警察官の息子としてはふさわしい気もするが、逆にドラマで見る警察官の熱血的なところがないのは、物足りなくも感じる。
――何を考えているか分からない――
と感じるところもあるが、彼の視線で見つめられるといつの間にか視線を逸らすことができなくなってしまっている自分に気付いた綾子だった。
最初に声を掛けられた言葉が何だったか、今では覚えていない。声を掛けてくるようなタイプではない人からいきなり声を掛けられたのである。覚えていなくても当然ではないだろうか。
いつの間にか彼に惹かれていた自分を感じたのは、顔が真っ赤になっているからである。それまで男性とほとんど話をしたことがなく、話しかけられても、
「話しかけやすいからだよ」
としか言われていなかった綾子は、男性に対してはあまり構えることはなかった。
だが、須藤だけは違った。声が裏返っているのではないかと思えるほど男性を意識している。中学生で意識しているというのは大人の女性が大人の男性を意識するのとではかなりの違いがあるに違いない。
――いったい、彼ってどんな男性なんだろう――
すべてはそこからである。男性全体などという意識よりも、彼という男性が、他の男性の嫌なところをすべて拭い去っているように思えていたのは、まだ自分が子供だからなのかも知れない。
それも分かっているつもりではいるが、自分の直感を大切にもしたい。傷つくことなど考えられないのは、自分が冷静沈着に男性を見ることのできる女性だと思っているからで、それが自惚れでないという意識はまわりの男性が自分を見る目を見ていれば分かる気がした。
――急に話しかけにくい女性になったのかも知れないわ――
元々が自分の中でそういう意識でいたのだから、そう思われて当然である。そう思われるように意識していたはずで、須藤が自分と一緒にいるからではない。須藤と一緒にいることで、本当の自分をまわりの人が見えるようになったからに違いなかった。
話しかけやすいタイプの女性だったはずの綾子が、急に話しかけにくい女になった理由は、須藤の存在だけではなかった。綾子の家庭に問題があった。
その頃、綾子の家庭では、父親の隠し事がおぼろげながらに露見していた。
最初はおぼろげながらだったのだが、隠そうとすればするほどボロが出てくるもののようで、おかしいと感じた母が後をつけたところから始まった。
父親の挙動不審は、そこまで来ていたのだ。家にいても心ここにあらずという感じのこともあった。元々隠し事が苦手な素直な性格なのかも知れない。そういえば、母が以前話していたことに、
「お父さんの好きなところは、ウソのつけない性格かも知れないわね。少し頼りないけど、それだけに、安心感があるのかしら? あなたたちも、そういう風に育ってほしいわ」
と、綾子と姉の美代子に話して聞かせてくれた。姉も綾子もまだ小学生で、綾子などは二年生くらいだったので、意味が分かるはずもない。意味が分からないからこそ、母親は話したようにも思える。独り言ではもとない。せめて誰かに聞いてほしいが、それも何となく恥ずかしい。よく分かっていない娘たちであれば話しても大丈夫だろうと踏んだに違いない。
首を傾げながら、それでも目を丸めて興味津々で聞いているあどけない小学生が目に浮かぶ。今なら思い浮かべることができるのだろう。
そんな父親が、隠し事を貫けるわけがない。すぐにバレるようなウソであれば、それほど気にすることもないだろうが、なかなか父親を見ていて、ウソが露見してくる様子がない。
――かなりなことに違いない――
と、母親は直感したのだろう。人の後を、しかも自分の亭主の後をつけるなど、よくよくのことだ。もし先に見つかりでもしたらどうなるだろう?
きっと父親の秘密は二度と暴かれることはないだろう。うまくはぐらかされて、それを分かっていながら後ろめたさからそれ以上の追求をすることができなくなる。そんな自分が想像できないのだろうか。それとも分かっていながらの覚悟の行動なのだろうか。綾子には母親の覚悟が目に見えて分かっていた。
母親が父親の後をつけているところを偶然見つけた綾子にとって、奇妙な行動は一瞬滑稽に見えたが、次の瞬間、言い知れぬ不気味さに背中がゾクゾクするのを感じた。
――人の後をつけるその人の後を自分がつけている――
知らない人が見れば滑稽以外の何者でもないだろうが、当事者にとって相当の覚悟がいったことだろう。綾子にしても、母親の後を追うのを戸惑った。しかし、ここで見失ってしまっては、一生後悔するのではないかと思ったからだ。
その思いに何の根拠もない。そのことを感じると、母親の金地が手に取るように分かってくる綾子だった。
――やっぱり遺伝ってあるのかしら――
と感じたほどで、他の誰にも分からない感覚だ。
綾子の脳裏にふと須藤の顔が浮かんだ。どうして浮かんでくるのか分かるはずもない。まったくの部外者なのに、浮かんでくるということは、それだけ綾子の今考えられる範囲が、かなり狭まっていることを示していた。
父親の様子は綾子の位置からでは確認できない。母親がリアクションを起こしてくれないと分からないのだ。
隠れながら歩いている母親の後姿は、本当に滑稽だ。まさか娘に尾行されているなどと夢にも思うわけはない。それこそ青天の霹靂だ。
完全に意識は前にしかない。もし後ろから車が近づいてきても気付かないかも知れないと思うほどだ。実際に狭い道を歩いていて、
――危ない――
と感じた瞬間もあるほどで、綾子自身、自分の後ろを気にするようになっていた。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次