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佐野槌 -張りの半籬交-

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四、女



 佐野槌名物の貝鍋はいかがでございましたか? それはそれは、ありがとう存じます。久しぶりに拵えたので心配しておりました。あの貝鍋には良い想いも悪い想いも両方ありますから、見世を閉めてからは拵えなかったのでございますよ。

 それではその良い想いの方からお話しいたしましょうかね。

 安政の江戸地震はご存じでございましょう? そうですか、お生まれになる前ですか。でも、あの地震のことはお聞き及びございましょう?
 それは大変な騒ぎでしたのよ。この歳まで生きていてあんな凄い地震は後にも先にもあれ一度っきりでございます。大門が閉じた時分ですから夜の四ツでしたね。これは本当の夜四ツですよ。あの里では今の夜十時を四ツとは言いませんで、九ツを引け四ツと呼んでいました。いきなり下から突き上げられるような振動がありまして、見世の梯子段がガタガタと大きな音を立てて暴れておりました。見世の若い衆が大声で二階に上がっていたお客や女衆を外へと追い立て始めました。ええ、あたしたちも最後に外へと逃げましたよ。そうしましたら外がもう大変なことになっておりましたの。江戸町の見世は佐野槌も含めて、普請も丈夫に出来ていましたので倒れなかったのですが、仲之町の奥、特に角町や京町の長屋見世がもの凄い音を立てて崩れておりました。大門も逃げる人たちで入り乱れ酷い騒ぎでした。
 そのうちどこからか『火だ、火が上がったぞ』の声が聞こえてきまして、命辛々山之宿の仮宅まで逃げたのでございます。道すがらお隣の熊蔵丸屋の方たちとお会いして、お互い生きて会えたことを抱き合って喜びました。熊蔵丸屋さんとは仲でも仮宅でもお隣同士で仲が良かったんです。
 あとで伝え聞いたところによると、遊女が三百人、禿が百人ほど火でやられたみたいでございます。ほとんどが最初の揺れで見世が崩れて動けなくなったところを火に襲われたみたいで痛ましいことです。お歯黒ドブに跳ね橋が五カ所あったんですが、そこに行き着くまでが大変だったようです。幸いなことに佐野槌は大門に近かったので、みな大門から外に出ることが出来ました。えっ? 跳ね橋がどこにあったのか? ですか。あの時は東の羅生門河岸に三カ所、西の浄念河岸に二カ所でした。あの地震の後の普請で二カ所増えて今は七カ所になったようですが、多少は役に立つのでございますかねぇ?

 あちらこちらで火の手が上がっていたようですが、明け方から小雨が降りましたので火事は直に止んだようでした。それよりもその日は一晩中大きな揺り返しにみな震えておりました。大きな揺り返しは五日ほども続いたんでございますかねぇ。それでも山之宿の仮見世はさほどの普請をせずに仮宅の支度を進められました。
 その江戸地震からひと月経ちまして仮宅を始めることが出来ました。江戸中が普請の最中でしたから、それらが落ち着いてから、やっと吉原の普請に取りかかりましたので、この仮宅はあたしが覚えている中でも一番長く、二年ほども続いたんでございます。
 仮宅が始まり暫くすると、一番の呼び出しの黛が見世の亭主に佐野槌名物の行平鍋を御救い小屋へ施したい、などと話しているのが聞こえてまいりました。
 黛はほんの小さい頃にあの里に禿としてやって来まして、ふた親の顔も覚えておりませんでした。何とか一目だけでも逢いたい、この地震でふた親は無事だろうかと憂いがあったのでございましょう。命からがら逃げ出した人が寄せている御救い小屋への施しが人の口に登れば、やがてはふた親が名乗り出てくれるかもしれない、と考えた末のことでしょう。そりゃ見世の亭主にはそんな施しをすれば、名を売りたいためだと勘繰られると止められましたよ。花魁どころか見世の評判も落としかねませんからね。それでも黛は引きませんでした。結局、黛が佐野槌の古くからのご贔屓、呉服屋の久次郞さんに無心することにいたしました。久次郞さんはそれはそれは心根のお優しい方でございまして、新造の千代花が病で親許に引き取られると直ぐにこれを娶りまして、世話を焼いて下さいました。黛はその久次郞さんから、自分の櫛、笄、簪をカタに三十両を借り受けました。それで行平鍋を六カ所の御救い小屋に二百ずつ施したのでございます。千代花は残念ながらそのすぐ後に死んでしまいましたが、黛花魁の櫛、笄、簪に囲まれて心安らかだったと久次郞さんに伺いました。黛が久次郞さんに無心をする様子が奥山の生き人形になりまして、多くの方が錦絵にも描いてくれました。それがまた大層な評判を呼びまして、ますます黛の名が江戸に広まったのです。

 ほどなく仮名垣魯文さんの『安政見聞誌』に黛が幼い頃に生き別れた親に逢いたい一心でのことと書かれますと、また評判を呼びまして、見世には一目黛を見てやろうという素見も含めてお客が押し寄せました。しばらくすると、藤岡屋さんの『藤岡屋日記』に、黛の間夫がさる勘定奉行の倅だと書かれまして、行平鍋の施しは見世が名前を売るためだと、今度は『安政見聞誌』とはまったく逆のことが書かれました。それで江戸中の評判が真っ二つになりまして、ついにはお奉行様のお調べを受けることになったのでございます。幸いお奉行様も分かってくださり、黛には親孝行の褒美として銀二分をお下げ渡しになりました。そして、そのことを町触れとして江戸中の木戸口に張り出されまして、一層黛の評判が高まりました。結局ふた親は分からず仕舞でしたが、良い思い出でございます。

 えっ、なぜ『藤岡屋日記』に悪く書かれたか、でございますか? 恐らく稲本屋さんあたりが吹き込んだのでございましょう。佐野槌とは同じ半籬交でも、あすこは普請が悪くて最初の揺れで見世が壊れて、多くのお女郎が死んでおりました。実は内にいた佐川――ええ、後の十三夜で総揚げの佐川花魁です――が女将に収まっていたんですが、彼女も楼が崩れて死にました。吉原の張りとは反対の見世でしたから……。
 仮宅が終わって吉原へ引き移るときも、うちや惣名主の玉屋さんなどは質素に移ったのですが、稲本屋さんなどはきらびやかに道中をしたようでございます。その様子が『藤岡屋日記』に囃し立てるように書かれておりました。お察しくださいませ。

 ご亭主が錦絵をお持ちになってきましたよ。では、そろそろ替わりましょうかね。