第八章 交響曲の旋律と
狙いは顎か。身長差を逆手に、下方向から突き上げるか――。
だが、そんな大ぶりの一撃は、リュイセンも看破している。彼は体を屈め、腕を引いたことで、がら空きになった腹へと拳をのめり込ませようとした。
腕のリーチが長いリュイセンのほうが、圧倒的に有利。
しかし……。
リュイセンは本能的な危険を感じ、咄嗟に体を引いた。
目の前を、ルイフォンの膝蹴りがかすめる。獲物を捕らえそこねた体は、回転しながら、ふわりと舞った。一本に編まれた髪が宙を泳ぎ、金色の鈴が殿(しんがり)を務める。
「な……!?」
リュイセンは息を呑む。
握った拳はフェイント。
円を描く腕の動きによって回転の力を生み出し、非力なルイフォンを補うようなスピードと破壊力を膝に載せたのだ。
さすがは、同じチャオラウを師事する弟(おとうと)弟子(でし)と言わざるを得ない。
大技を外したルイフォンは、隙だらけだった。そこに軽く一撃を加えるだけで、リュイセンの勝ちは決まる。
けれど、彼は見逃した。
この勝負は、腹に一発食らわせて終わりにするつもりだったのだが、気が変わったのだ。そんな泥臭い戦い方では失礼というものだ。
深く息を吐く。鷹刀一族の直系らしい、冷酷にも見える整いすぎた顔で、リュイセンはルイフォンを見据える。
ルイフォンが体制を立て直すのを待って、リュイセンの手刀がルイフォンの首筋を狙った。
ルイフォンは素早く横に飛び退(の)き、難を逃れる。猫のように軽やかに着地すると、間髪おかず、今度は彼から仕掛けた。
正面から受けて立とうとするリュイセンの間合いの外から、ルイフォンは回し蹴りを仕掛けた。ひねりをきかせ、力強く踏み切った足が、雨上がりの柔らかな土をえぐり、青芝生を散らす。
ルイフォンの爪先が、リュイセンのこめかみを狙う。普通に考えれば、隙の多い無謀な攻撃――だがルイフォンは、逆光を味方に引き入れていた。
背を輝かせながら、リュイセンの長駆に挑む。
瞳を刺す光の矢に気づいたリュイセンは、しかし動じることなく、気配だけでルイフォンの蹴り上げられた足の位置を察し、太腿に手刀を叩きつける。
重い一撃が、骨に響いた。
ルイフォンの足が、地面に払い落とされる。かろうじて倒れ込みはしなかったが、姿勢の安定していないところへリュイセンの手が伸びた。腕を取られ、関節を極(き)められる。
「痛(いて)っ!」
肘から手首、指先までも、しっかりと捕らえられ、ルイフォンは身動き取れなくなった。
勝負あったなと、リュイセンの美貌が酷薄に嗤う。
ルイフォンの格闘センスは決して悪くはない。だが致命的に力が足りない。かといって、蹴りに頼れば動きに無駄が出る。チンピラ程度なら楽に翻弄できるだろうが、凶賊(ダリジィン)としては、まったく戦闘に向いていない。
勝てば認めてやる、という約束ではなかった。いずれは一族を背負うリュイセンに、勝てるわけがないのだ。逆に、もしルイフォンごときに負けるようなら、リュイセンのほうこそ出ていくべきだろう。
落としどころをどうするか。――リュイセンは眉を寄せた。
あちらこちらから、一族の者たちが固唾を呑んで見守る視線を感じる。この状況で、ルイフォンを追い出すことなどできるわけがない。
「リュイセン」
うなるようにルイフォンが呼んだ。痛みからか、額には脂汗が浮かんでいた。けれど、その瞳は好戦的で、ややもすると怒りすら見て取れた。
「俺の指を折るなよ? 腕もだ」
「ルイフォン?」
「勝負はお前の勝ちだ。そもそも、俺がお前に敵うはずがない。そんなことは分かっていて、俺はお前の話に乗った。――だから今度は、俺の話を聞け」
獣が威嚇するような形相で、リュイセンを睨む。こぼれ落ちた汗が、顎を伝った。
「お前の話……?」
「この勝負に意味はない。俺は別に、一族として――凶賊(ダリジィン)として認められたいとは思っていないからだ」
「な、に……?」
驚愕と共に、リュイセンの力が緩む。それに乗じて、ルイフォンは拘束を振りほどいた。
軽く体をゆすり、筋肉を解きほぐす。掌を閉じたり開いたりすることを繰り返し、指が滑らかに動くことを確かめると、ルイフォンは鋭く光る猫の目を向けた。
「俺は、何処にも属するつもりはない」
握りしめた形のままの拳を突き出し、リュイセンの目前で止める。
「俺は、自由な〈猫(フェレース)〉だ」
はっ、と気づく。――リュイセンは、その拳を知っていた。
ルイフォンと初めて出会った、あの日。緑の香る初夏の陽射しの中。
母親に馬鹿にされたルイフォンは、桜の大木に八つ当たりしようと拳を突き出した。
けれど、寸前で止めた。
そして、『俺が指を痛めたら、仕事になんねぇだろ』と、十(とお)にも満たない子供のくせに、一人前に言ってのけたのだ。
「ああ、そうだった……。お前は〈猫(フェレース)〉だ」
リュイセンは呟く。
それなのに彼は、ルイフォンを凶賊(ダリジィン)として迎えようとした。血族だから優遇されるのだ、と陰口を叩く一部の者を黙らせるため、後ろ盾になってやるとすら言った。
可愛い弟分に、意味のない戦闘を強いた。――愚かさに、嗤いがこみ上げてくる。
「だが、一族に加わるつもりがないなら、どうして『屋敷に居ることを認められたい』なんて言ったんだ?」
リュイセンの問いに、ルイフォンがふわりと笑う。優しく穏やかな、青い空のように。
「鷹刀が好きだから。――ここは俺の居場所なんだよ。俺にとっての一番はメイシアだけど、親父やエルファン、ミンウェイ。チャオラウや料理長……。勿論リュイセン、お前も必要だ」
照れることなく、まっすぐに向けられた純粋な眼差しに、リュイセンは惹き込まれる。
初めて会ったときと同じだ。
魂が、強い。
「俺は欲張りだから、全員、必要なんだ」
「ルイフォン……」
「それからメイシアにも、鷹刀の中に居場所を作ってやりたい。俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれた、ふたり』でいたいんだ」
ルイフォンは後ろを振り返り、メイシアに向かって手を伸ばす。その手に引き寄せられるように、彼女が駆けてくる。長い黒髪をなびかせ、柔らかに顔をほころばせながら……。
「心配かけて、悪かった」
メイシアを抱き寄せ、ルイフォンはくしゃりと髪を撫でる。無言で何度も首を振る彼女の目には、涙が浮かんでいた。
弟分を想うメイシアの姿に、リュイセンの心がちくりと痛む。ひとり、空回りしていたようで、なんともいたたまれない。
「……ルイフォン。この勝負、どうして受けたんだ?」
黄金比の美貌が、情けなく歪んだからだろう。ルイフォンがくすりと笑った。
「俺に対するお前の怒りは、もっともだったからな。勝負に応じることで、お前の気が鎮まるなら安いものだと思った」
それからルイフォンは、少しだけ考えるような素振りを見せてから、にやりとする。
「実は俺、一族の誰よりも強いんだよ」
「なっ?」
「俺は〈ベロ〉を人質に取ることができる。鷹刀が表に出せない、あらゆる情報を意のままに操れるし、捏造することも可能だ」
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN