第八章 交響曲の旋律と
イーレオが懇意にしている女が、ただの女であるはずがなかった。シュアンは自分の愚かさを認識する。
シャオリエは、小さくて華奢な手をすっと滑らせ、シュアンの制帽を払い落とした。
「人前で、顔を隠すものではないわ」
そう言って、にっこりと笑う。見る者によっては男を蕩かす魔性の微笑みなのだろうが、シュアンにとっては人喰いの魔性にしか見えない。
「お前が『緋扇シュアン』ね。〈影〉を殺した――」
『殺した』という言葉に、シュアンの眉がぴくりと動いた。
「あら? 不満?」
シャオリエがくすくすと笑う。可愛らしい、とすら表現できそうな仕草を見せる彼女を、シュアンはぎょろりとした三白眼で睨みつけた。
「ああ、その顔。いいわね、ゾクゾクするわ」
「……あんたが何者か知らんが、年長者なら初対面の相手に対する礼儀くらい、わきまえているものじゃないのか?」
相手が格上と分かっていても、それで屈するシュアンではない。そんな彼に、シャオリエは嬉しそうに目を細めた。
「シャオリエ、よ。繁華街で娼館を営んでいるわ。よかったら遊びに来て。いい娘がいっぱいいるわよ」
シャオリエはシュアンに名刺を差し出す。完全に馬鹿にされている。
かちんと来たシュアンだが、力を得るために人脈作りを繰り返してきた彼には、名刺を無碍に振り払うことはできず――。
「――え? 『シャオリエ』?」
「ええ」
「鷹刀イーレオが総帥位に就くときに、暗躍した……?」
シュアンは鷹刀一族と手を組むにあたり、過去から現在に至るまでの様々な情報を集めた。その中に、イーレオの頭が上がらない唯一の人物として『シャオリエ』の名があった。
しかし、三十年前に二十歳そこそこであった『シャオリエ』は、現在では五十近くになっているはずである。なのに、目の前の女はどう見ても四十手前であった。
「お前、射撃場に行くと言っていたわね。何をするつもりなの?」
不意に、シャオリエが尋ねた。
「自主訓練だと言ったはずだが?」
「どうかしら? ……例えば、リボルバー式の銃の半分に弾を込めて――バンッと……」
シャオリエの手が銃をかたどり、シュアンのこめかみに突きつけられる。
「まさか」
「あらぁ? だって、お前、生きることも死ぬことも自分で選べない、迷子のような顔をしているじゃない?」
「…………」
「時と場合によっては、『死』は何よりも魅力的よ。お前みたいな坊やに、抗えるかしら?」
アーモンド型の瞳の目元が、意味ありげに嗤う。見透かされるような視線に、シュアンはぞくりとした。
恐怖から逃れるかのように、シュアンは屈み、床に落ちた制帽を拾う。
――一晩の間に、一度も揺らがなかったと言えば、それは嘘だ。先輩を撃った現実から、逃れたいと何度も思った。
「……俺は、これから……自分の撃ち砕いた『無限の可能性』を背負って……生きていかなきゃならねぇんだよ……!」
床を向いたまま制帽を握りしめ、シュアンは小さく独りごちる。
次に顔を上げたとき、彼は頭のてっぺんに制帽を載せた。見開いた三白眼が、鋭く光っていた。
「ともかく、これで失礼。上と話をつけてきますから、先輩の身柄をしばらく頼みます」
ソファーに座ったままのイーレオに、シュアンは声を掛ける。そして、そのまま背を向けた。
「ミンウェイを、ありがとね」
扉が閉まる間際、シュアンはそんなシャオリエの声を聞いたような気がした――。
「……まったく。本当に、あなたは何を言い出すか分かりませんね」
やや、すねたようにイーレオがぼやく。シャオリエは「失礼ね」と言いながら、彼の向かいの席に戻った。
気まぐれなシャオリエが、珍しい毛並みのシュアンに興味を持ったのは明らかだった。イーレオは溜め息をつく。
「シャオリエ。あれは狂犬――」
そう言いかけて、彼は「いや」と、否定した。軽く頭(かぶり)を振り、背の中ほどで結わえた髪を揺らす。
「あれは『野犬』だ。手なずけられるものじゃない」
断言されるのは、面白くない。だが、シャオリエが気を悪くすることはなかった。イーレオの言葉の裏が見えたからだ。
「お前も、あの男を欲しいと思っているわけね?」
「否定はしませんよ。けど、彼は野生にいるから美しいのであって、飼い慣らしたら魅力を失うのだと思いますよ」
「確かに、そうねぇ。……残念」
そしてふたりは、どちらからともなく笑い合ったのだった。
小鳥たちのさえずりが聞こえる。ささやきを交わすように、澄んだ鳴き声が追いかけ合い、重なり合っていく。
薄目を開ければ、カーテンの隙間から、まっすぐに降りてくる光の筋が見えた。それは純白に輝くベールとなって、彼の隣で眠る彼女を飾る。――花嫁のように。
彼は、そんな彼女と指先を絡め合い、手を握り合っていた。
――執務室に報告書を置いてきたあと、ルイフォンはベッドに倒れ込んだ。
ずっと、そばについていてくれたメイシアが、心配そうに顔を覗き込んできたのは覚えている。だから、彼女の手を掴み……そのまま眠ってしまったらしい。
大の字に寝転んだ彼が、強引に引き寄せたからだろう。彼女はベッドの端のほうで、横向きになって、こちらを向いていた。
凛と輝く黒曜石の瞳は、今は閉ざされ、隠されている。代わりに、瞼(まぶた)の縁をで、くっきりとした睫毛が緩い弓を描いている。その目元からは、普段は感じられない、あどけなさが漂い、無邪気で、無防備だった。
口元に掛かった黒髪のひと房は、なんとも艶かしい。まるで、薔薇色の唇の柔らかさを強調するかのよう。また、そこから漏れ出す吐息は、白いシーツにわずかな湿り気をもたらしていた。かすかでありながら確かなその音が、彼を誘っている。
甘やかな人肌の匂いに、彼は――。
……駄目だろ。
ルイフォンは自分を叱咤する。
彼が不埒なことをしたところで、彼女は怒らない。その自信はある。
けれど、そういう問題じゃない。
この先ずっと、この手を取り続けているために、彼は今日、彼女の父親と話す。
それからだ。
一晩中、彼女を握り続けた手は、既に感覚が鈍くなっていた。けれど、確実に彼女と繋がっているのを感じる。
……単刀直入に言うのでいいんだろうか。
洒落た言葉など柄(ガラ)ではないが、一生に一度のことだから、のちのちメイシアの中で残念な思い出になってしまっては可哀想だ。
ルイフォンは光のベールを見上げ、眉間に皺を寄せた。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN