第八章 交響曲の旋律と
9.蒼天への転調−1
『夜の闇から目覚めた瞬間に、彼女の姿を瞳に映したいんだ。そして……』
『そして?』
口ごもる父親に、小さなメイシアは小首をかしげた。
『暁の光の中で、彼女に『おはよう』って言ってもらいたい――』
そう言って、若かりしころのコウレンは、照れたように笑った。
まっさらな光が闇を払い、東の空が白み始めた。薄明の空は、あっという間に千変万化の暁色に染め上げられ、鮮やかなる色彩の舞台を築き上げる。
光の帯の裾野が、カーテンの開け放された窓から入り込んだ。時々刻々と変化する光の中で、ルイフォンは、ふと目を覚ます。いつもなら、まだまだ夢の中の時間だが、なんとなく予感がして、自然に瞼(まぶた)が開いたのだ。
「お、おはよう……」
緊張を帯びているものの、優しく澄んだ声。首筋をくすぐる、柔らかな吐息――。
目の前に、メイシアがいた。
暁の朱(あか)よりも、もっと紅(あか)く頬を染め、黒曜石の瞳には、彼女を見つめる彼の顔が映っている。
「ああ……」
そうか、と。
こみ上げてくる想いに、ルイフォンの胸が熱くなった。
「おはよう、メイシア」
一晩中抱きしめていた手で、彼女の髪に触れた。黒髪を梳(す)くと、絹の滑らかさが指先に吸い付く。
その手にぐっと力を入れ、彼は彼女を抱き寄せた。触れ合った素肌が、ぬくもりを分かち合う。
言い知れぬ心地よさに包まれ、ルイフォンは呟くように漏らした。
「メイシアの親父さんの気持ちが、痛いほど分かる。……俺ね。今、凄く幸せ」
寝物語に聞いた、メイシアの父、コウレンの言葉。穏やかな男の、生涯で一度きりの暴挙ともいえる我儘――。
ルイフォンは少しだけ体を離し、メイシアとまっすぐに向き合った。
鋭い瞳に、力強さを載せ、彼は告げる。
「メイシア、俺と一生、共に過ごしてほしい」
彼女が目を瞬かせた。何を今更、と思っているのだろう。
けれど彼は、言わずにはいられなかった。
「お前は間違いなく、お前が思い描いていたのと、まったく違う人生を歩むことになる。けど、絶対に後悔させたりしない。俺が、必ずお前を幸せにする」
「ルイフォン……」
「だから俺に、お前の人生を賭けてくれ」
彼女の幸せを誓い、自分の幸せを望む。
そして、心から希(こいねが)う。
「――ずっと、そばに……居てください」
テノールの響きが、暁の光に溶ける。
メイシアの瞳に、薄っすらと涙が溜まっていった。けれど、彼女は微笑んでいた。彼のそばで、幸せそうに――。
「はい」
彼らは、どちらからともなく微笑み、口づけを交わした。
台所が、オリーブオイルで炒めたニンニクの良い香りで満たされる。そこに、赤唐辛子のぴりっとした刺激臭が加わり、空気が引き締まる。
寸動鍋がぐつぐつと音を立てて沸騰すると、ルイフォンは手際よく塩を入れ、続けて、両手でひねったパスタを勢いよく放り込んだ。その瞬間、鍋の中で花開くように乾麺が広がる。
『ある程度の家事はできる』と言った、彼の言葉に嘘はなかった。「それじゃ、朝飯にするか」と言ったあと、彼はまっすぐに台所に向かい、おもむろに調理を始めたのである。
メイシアは呆然と、慣れた手つきの彼を見つめていた。
「ルイフォン、凄い……」
「惚れ直した?」
彼は、くるりと振り返り、得意気に口の端を上げる。
「うん。私は何もできないのに、ルイフォンは……」
「こら、落ち込まない。――これは俺の自慢料理だからな。上手くて当然だ」
インスタント食品を出してきたほうがよかっただろうか、とルイフォンは少しだけ考える。けれど、メイシアはそんなものを食べたことがないだろう。何より、ふたりで迎える初めての朝だ。できるだけ洒落た思い出にしたかったのだ。
普段は無人の家であるため、備蓄できる食材は限られている。そんな中で、彼が定番にしているメニュー――ニンニクと唐辛子のパスタ『ペペロンチーノ』。ニンニクは芽が伸び始めていたが、よくあることなので気にしない。朝からニンニクたっぷりはどうかとも思うが、これが一番得意なのだから仕方ない。本当は言うほどレパートリーはないのだから。
ルイフォンはコーヒー豆を出してきて、ガリガリとミルで挽き始めた。あたりに芳しい香りが漂い、メイシアが目を丸くするのを楽しむ。
「メイシア、その棚からコーヒーカップを取って」
手持ち無沙汰の彼女に、そっと頼んだ。彼女は嬉しそうに動き始め、コーヒーカップと共に見つけた皿とフォークも、遠慮がちに持ってくる。
「気が利くな。ありがとう」
すぐそばに彼女が居て、一緒に何かをしている。幸せだ、と彼は思った。
幸せだからこそ、もっと幸せにしてやるべきだ、と彼は思った。
少々、唐辛子を入れすぎたのか、時折、顔をしかめていたが、ルイフォンの作ったパスタは概ねメイシアに好評だった。彼は満足そうに目を細め、コーヒーを口にする。
昨日の雨は、すっかり上がっていた。
庭を覆い尽くす桜の花びらは、初春の残骸と成り果てていたが、代わりに、芽吹きを迎えた木々が、全身に浴びた雨雫で陽光を弾き、光の花を咲かせている。
透き通った蒼天が、世界を巡っていた。穏やかで、温かく、心地よい。
このまま時が止まれば、永遠に安らかで平穏な、ふたりきりの王国だ。
ルイフォンは、向かいに座るメイシアを見た。彼女は、コーヒーカップを両手で包み込み、大切そうに香りを楽しんでいた。彼の淹れてくれたコーヒーを宝物のように見つめ、少しずつ口に含む。
「メイシア」
ようやく、彼女がカップをソーサーに置いたとき、彼は静かに声を掛けた。彼女は、どうしたの? と、きょとんと彼を見る。
「鷹刀と、ハオリュウのところに戻ろう」
「え……?」
何を言われたのか理解できない、とばかりに、彼女の表情が止まった。喜怒哀楽のどれでもない顔で、じっと彼を見つめ返し、彼の真意を問う。
「俺は、お前に『すべてを振り切っちまえ』と言ったし、お前も『振り切ってきた』と言ったけどさ。本当は俺たち、そんなことをする必要ないんじゃないか?」
彼女と、ふたりきりでいたい。その気持ちに偽りはない。けれど、彼女を閉じた世界に押し込めたら、それは鳥籠の中と同じなのだ。
彼女には自由に羽ばたいてほしい。青天も荒天も、どんな空でも――。
「俺たちは別に、駆け落ちするほど周りに反対されてないはずだ。それよりも……」
ルイフォンは、にやりと不敵に笑った。まるで挑むように、猫の目を鋭く光らせる。
「俺たちは、皆に祝福されるべきだろう?」
「ルイフォン……」
メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。
彼女は慌てて拭おうとするが、先を読んで身を乗り出していたルイフォンの指先が伸び、彼女よりも先にそれをすくい取る。
濡れた指をぺろりと舐めると、案の定、しょっぱい。けれど、顔を真っ赤にして、信じられないものを見る目をしているメイシアが、可愛いのでよしとする。
深刻になりすぎずに、直感的に、我儘に、気ままに。笑いながら彼女と生きていきたい。だから、少し惜しい気もするけれど、戻るべきだと彼は判断したのだ。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN