第八章 交響曲の旋律と
7.引鉄を託す黙約−1
緋扇シュアンが鷹刀一族の屋敷に向かったのは、仕事を終え、夜になってからのことであった。
しとしとと降り続く闇空を見上げ、嫌な天気だ、と彼は思った。冷たい雫が頬を切り裂き、体温を奪っていく。
――あの餓鬼は、果たして引き金を引いたのだろうか?
何不自由なく暮らしてきた貴族(シャトーア)で、まだ保護されるべき子供で、しかも標的は実の父親だ。
人間の手に握られた刃物や拳銃が、本当に人に害を為(な)す凶器に成り下がるか否か、シュアンには、だいたい分かる。まともな人間なら、そうそう他人を傷つけられるものではないからだ。その『まとも』の枠からはみ出た人間を、シュアンは狩る。自分も同じ穴の狢(むじな)と思いながら。
だが、ハオリュウに対しては、『まぁ、やってみろ』という半信半疑の言葉しか出なかった。
ぼさぼさ頭を振り、彼は溜め息をつく。私服のため、頭の上には制帽は載っておらず、髪の毛は好き放題に跳ねていた。
ハオリュウは、シュアンの大嫌いな貴族(シャトーア)である。どうなっても知ったことではない。ただ、貸した拳銃を返してもらいに行くだけだ、と彼は独りごちる。
「餓鬼が粋がっていただけだと、嗤ってやるからさ……」
『まとも』な人間なら、引き金は引けない。
――けれど、雨が降っている。まるで誰かを悼むように。
屋敷に着くと、門衛がぎろりとシュアンの顔を睨んだ。そして、ぶっきらぼうに「ミンウェイ様がお待ちかねだ」と告げた。
シュアンは確信する。
あの餓鬼は――ハオリュウは、引き金を引いた、と。
「――――……」
淡々と語るミンウェイの声は美しく、けれど艶(つや)を感じられなかった。輝く美貌も、今は憂いにくすみ、麗(うるわ)しさよりも憐れを覚える。
屋敷に入ったときから、妙な雰囲気を感じていた。そして応接室に通され、現れた彼女の姿を見た瞬間に、予期せぬことが起きたのだと理解した。
「……ハオリュウの足は……。歩行は可能ですが、おそらく後遺症が残るでしょう」
最後にそう言って、彼女は長い話を終えた。
シュアンは、座り心地の良すぎるソファーに埋もれるようにして寄りかかり、動けなかった。湯気の立っていたティーカップは手付かずのままに、いつの間にかひっそりと沈黙している。
あの小生意気な餓鬼は、行動に移した。
他の人間を巻き込み、目的は果たしたが、自身も一生残る怪我を負った。
それだけの事実だ。
なのに、どうして、こうも衝撃を受けているのだろう。――シュアンは、仰ぐように天井を見つめる。
不意に、ふわりと草の香が広がった。正面を見れば、ミンウェイが彼の顔を窺うように見つめており、波打つ髪が肩から転がり落ちていた。
「……あなたは何故、ハオリュウに銃を貸したのですか?」
感情の読み取れない、静かな声だった。
改めて訊かれると、シュアン自身にもよく分からない。だがそれよりも、彼女の問いを耳にした瞬間、本能的な反発心が生まれた。
何故、貸したら悪い? 何か文句あるのか? 返答を求められているのに、そんな喧嘩腰の質問が脳裏を駆け巡る。
頼まれたから、というのが直接の理由のはずだった。しかし、そう答える気になれなかった。結果として口から出たのは、牽制したような、うがった疑問形の言葉だった。
「あの餓鬼の怪我は、俺のせいだと言いたいのか?」
言ってから、まるで保身だと後悔する。そんなつもりはないのだ。薄情に聞こえるかもしれないが、シュアンはハオリュウを可哀想だとは思っていない。ただ、後味が悪いだけだ。
険悪な三白眼に、ミンウェイが顔色を変える。彼女は「すみません」と慌てて首を振った。
「そんなつもりで言ったわけではないんです。……勿論――」
ためらうように口元に指を寄せ、彼女はわずかに目線を下げる。
「銃がなければ、ハオリュウの怪我はなかったかもしれません。敵に奪われればどうなるかも考えずに、安易に強力な武器を渡したあなたを、責めたい気持ちがないと言ったら嘘になります。……けど、私が訊きたかったのは、もっと別のことなんです」
紅(べに)の落ちかけた唇が少しだけ上がった。けれど、その顔は決して笑顔ではなく、どちらかというと泣いているように見えた。
「あなたは、権力者である貴族(シャトーア)が大嫌いなはずです。なのに、どうしてハオリュウの力になろうとしたのか……気になりました」
シュアンは息を呑んだ。ハオリュウは貴族(シャトーア)。――ミンウェイが言うことは、もっともである。
同じ境遇のハオリュウを放っておけなかった。だが、それを口にするのは自分の弱さを露呈するようで、彼は答えに窮する。
押し黙ってしまったシュアンの代わりに、ミンウェイが遠慮がちに口を開く。
「……やはり、〈影〉という存在に、あなたの先輩と……私の父――『〈蝿(ムスカ)〉』のことを――?」
曖昧に言って口をつぐんだミンウェイの顔は、やはり弱々しくて、まるで儚げな泣き顔だった。シュアンは気まずくなり、視線をそらす。
お人好しの彼女は彼を思い、見えない涙を流している。それが見えてしまって……心が痛かった。
雨の音が響く。
しとしとと、静かに。ぽたぽたと、柔らかく。彼女が優しく囁くように――。
「ハオリュウがあなたに、とても感謝していました。貴族(シャトーア)嫌いのくせに親身になってくれて嬉しかったと。……一生残る怪我を負いながらも、納得した笑顔を見せるんです。――さすがに、辛かったです。なんて、恨みごとですよね、すみません」
深刻さを誤魔化すように、ミンウェイが軽く肩をすくめる。シュアンは、「そうか、あの餓鬼が……」と小さく呟くしかできなかった。
――そこで感謝できるものだろうか。そこで笑えるものだろうか……。
ハオリュウが直接シュアンに言ったのなら、社交辞令か、その先に何かの思惑があると疑える。けれど、ミンウェイに向けた言葉なら、それは本心だ。
シュアンは、ぎりっと奥歯を噛む。
「藤咲氏が目覚める前、私、ハオリュウとお話したんです」
まるで独り言のように、ミンウェイが、ぽつりと言った。
「彼は、お父様に対する複雑な思いを吐き出してくれました。でも、そのあと憑き物が落ちたみたいに優しい顔になって、お父様のお目覚めを心から楽しみにしていたんです」
ぽつり、ぽつり、と。窓の外で降り続く雨のように、ミンウェイが言葉を落とす。
「でも、その結末は……」
彼女が首を振り、草の香が広がる。
「だから、私、思ってしまいました。藤咲氏が〈影〉にされてしまったことを、誰よりも早く、私が気づけばよかった、と」
「ミンウェイ?」
わずかに違和感を覚え、シュアンは不審に思う。
「……あんなにお父様を大切に思っているハオリュウに、悲しい決断をさせないように――私が……」
その瞬間、シュアンはを悟った。
ミンウェイは、何もできなかった自分をずっと責めていたのだ。
ハオリュウに対しては勿論、シュアンが先輩を撃たざるを得ない状況に陥ったことさえも。――彼女のせいではないにも関わらず。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN