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第八章 交響曲の旋律と

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〈ケル〉を書き換えた犯人は、鷹刀一族の屋敷の人工知能〈ベロ〉しかあり得ないだろう。ルイフォンは眉を寄せる。
 手出ししないと言いながら、何かとちょっかいを出してくる性格。そして、あの口調。〈ベロ〉が誰を元に作られたものか想像がつく。
 メイシアを居間に案内し、ルイフォンはタオルを持ってきた。無人の家であるが、週に一度は家政婦に掃除を頼んでいるし、たまに彼が泊まり込んで〈ケル〉のメンテナンスをするので、ある程度のものは揃っている。
 彼女は、勧められたソファーの端に小さくなって座っていた。
 黒髪に、薄紅の花びらが一枚、くっついていた。彼はそれを取ってやろうと思ったが、肌に貼りつく濡れた髪が妙に艶(なまめ)かしく、思わず唾を呑む。迂闊に触れたりしたら歯止めが効かなくなりそうだった。だから、気づかないふりをした。
「寒くないか?」
 わずかに目線をそらしながら、彼はタオルを渡す。本当は、すげなく『すぐに帰れよ』と言うつもりだった。
「ルイフォンこそ。ずっと外にいたんでしょう?」
 彼女は首を振り、逆に心配そうに尋ね返す。そして、「あ、花びら」――そう言って、彼の前髪に手を伸ばした。
「……っ!」
 反射的に、彼は身を引いた。
 触れてはいけない。触れられてはならない。
 それは禁忌だ。
 体は冷え切っているのに、全身から汗が吹き出す。
「す、すみません」
 メイシアは、傷ついた顔をしていた。肩をすぼめ、瞳に萎縮が混じる。言葉遣いが変わる。そんな彼女を見るのが辛くて、彼は自分もタオルで頭を拭くふりをして彼女に背を向けた。
「誰が……お前をこの家に連れてきたんだ?」
 それは純粋な疑問のはずだった。けれど、気づいたら不機嫌な声になっていた。きっぱり『帰れ』と言えない弱さが、彼女を連れてきた者を卑怯に責めていた。
「ミンウェイか?」
 しかし、医者である彼女は、大怪我を負ったハオリュウにつきっきりだろう。だから、リュイセンだろうか。
 そう考えていたルイフォンの耳に、意外な答えが返ってきた。
「エルファン様です」
「エルファン!?」
 一番、高みの見物を決め込みそうな人物の名前だった。
「はい。……この家は、エルファン様がルイフォンのお母様のために建てられた家なんですね。来る途中で教えてくださいました」
「……ああ。母さんは、エルファンの愛人だったから」
 髪を拭いていたルイフォンの手が止まる。指からタオルが滑り落ち、髪先を飾る金色の鈴を大きく揺らしてから床に落ちた。
 ルイフォンの母は、常に金色の鈴の付いた革のチョーカーを身に着けていた。
『それ、首輪じゃん』と彼が言うと、『あたしは鷹刀の飼い猫なのよ』と彼女は自慢げに笑っていた。
 チョーカーの贈り主は、エルファンだった。
 彼女は死ぬまで、それを外すことはなかった。
「……ルイフォン」
 緊張したメイシアの声が、背後から聞こえてきた。彼女がソファーから立ち上がる衣擦れの音と、一歩だけ彼に歩み寄ったものの、そこで立ち止まる小さな気配――。
「私は、ルイフォンがお父様を殺したなんて思っていません。でも、ルイフォンはそう思っています。――どちらが正しいのかは、誰にも分かりません」
「メイシア。その話は、もう終わった話だ。俺の罪は、俺が裁く。俺はお前から離れ、お前を自由にする。俺の世界は、お前にふさわしくない」
 声を荒らげたいのを抑え、彼は低く冷静に言った。やはり彼女を家に上げるべきではなかった。そのまま帰すべきだったと、後悔がこみ上げる。
 これ以上、話しても無駄なのだ。
「お前なら分かるだろう? 平行線だ」
 庭で見た極上の笑顔に、胸を揺さぶられた。
 彼を欲しいと言ってくれた言葉に、心が踊った。
 今、後ろを振り返って、手を伸ばせば、彼女は彼のものになる。けれど、それは許されない。彼自身がそれを許さない。
「だからもう、この話は終わりなんだ」
 はっきりと、口に出して言うべきだ。
 ――彼女に、別れを。
 苦しくてたまらない。けれど、このままでは、彼女も終止符を打てない。
 ならば、できるだけ優しい声で言いたい。
 心を込めて。
『さよなら』を――。
 ルイフォンは、決意と共に、深く息を吸い込んだ。喉元が熱い。鼻の奥がつんとする。
 それでも彼は、振り返る。彼女に手を伸ばすためではなく、彼女の手を振り払うために。
「メイ……」
「ルイフォン」
 薄紅色の唇が、静かに彼の名を呼んだ。
 黒曜石の瞳を見た瞬間、口から出掛かった声が途切れる。
 彼女なら、彼の言おうとしていることを理解しているはずだ。彼が、彼女と向き合った意味を間違えないはずだ。
 ――なのに、彼女は。
 切なげに、愛しげに……微笑んでいた。
「あなたの言う通り、平行線にしかならない話は、もう終わりです。ここから先は『あなた』と『私』の話です」
 メイシアは穏やかに宣言した。
 優しい面差しに、有無を言わせぬ強さが宿る。
 彼女は、こんなに強かっただろうか。こんな場面で笑えるほど、強かっただろうか。
「エルファン様が、おっしゃっていました。『大切なものは、決して手放すな』って」
「……っ!」
 びくりと震えたルイフォンの背で、金色の鈴が跳ねた。
「私――、あなたを手に入れます。あなたが欲しいから」
「メイシア……、だから、俺は……」
 尻窄みになっていく彼の言葉を、彼女は鮮やかに無視した。
「すべてを振り切ってきた私は『藤咲メイシア』ではない、ただの『メイシア』です。何も持っていません。ルイフォンと初めて執務室で逢ったときと同じです」
 そう言って、懐かしむようにメイシアは目を細める。
「あのとき、総帥代理を名乗ったルイフォンは、私に『お前は何を差し出すつもりだ?』と訊きました。その答えも同じ――」
 メイシアは間を取る。あのときと同じように。
 すっと息を吸い、花がほころぶように艶(あで)やかに笑う。
「――『私』です。私は、あなたに『私』を差し出します」
「なっ……」
「そして、私が欲しいものは『ルイフォン』。あなたの抱えている痛みも、後悔も、因縁も、罪も、傷も、何もかも全部、含めて『ルイフォン』です」
 黒曜石の瞳が、ぐっと彼の心の奥を覗き込んだ。
 濁りのない、どこまでも澄んだ深い黒。彼のあらゆる感情の色を飲み込み、優しい黒の中に溶かしていく。
「ここにいるのは、ただの『あなた』と『私』。――欲しいものは欲しいと言ってよいと、我儘だとしても本心を言ってよいと、ルイフォンが教えてくれました。だから、私は言えます。何度でも言います」
 彼女は笑う。
 大切なのは、むき出しの本心だと彼に示すように。
「私は、あなたが欲しい」
 息をするのと同じくらい自然に、彼女は告げる。
 白い耳たぶに掛けられていた髪がひと房、音もなくこぼれ落ちた。雨に濡れた黒髪のしっとりとした質感が、柔らかな唇をかすめて流れていく。
「あなたのそばに居たい。この先を、あなたと一緒に生きていきたい」
 まっすぐに彼を見つめる彼女は、純粋で、無垢で。
 それを穢したくないから離れようとしたのに、彼女は細い腕を懸命に広げて彼を包み込もうとする。
 彼女は、強く求める。強く望む。強く訴える――彼が欲しいと。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN