第八章 交響曲の旋律と
メイシアは、かっと頭に血が上るのを感じた。深窓の令嬢として、穏やかに慎み深くあるよう育てられた彼女が、思わず我を忘れた。
「シャオリエさん! たとえあなたでも、そんなことを言うのは許せません!」
視線で射殺さんばかりの剣幕。涙を見せる脆さを持ちながらも、決して譲らない強さ――。
シャオリエは、ふっと柔らかく息を吐いた。
「『欺瞞』――そう言ったのは、ルイフォンよ」
「え……?」
メイシアは、きょとんと目を丸くした。
「イーレオが総帥になる前の鷹刀は、〈七つの大罪〉と組んでいた。だから、ここにいる者は皆、知っている。――『〈影〉は、元には戻らない』と」
シャオリエは目線を巡らし、イーレオを、チャオラウを、エルファンを順に見やる。
「だから、私たちはルイフォンに言ったわ。『藤咲コウレンの死は不可避だった。最期に戻ったのは、記憶の上書きのミスで、ただの幸運。お前は間違っていない』とね。けれど、ルイフォンは『欺瞞だ。わずかでも元に戻る可能性はあったはずだ』と、突っぱねた」
メイシアは、はっと顔色を変えた。
「シャオリエさん。今までのあなたの言葉は、ルイフォンが言ったことの代弁なんですね!?」
「そうよ」
察しのいいメイシアに満足したのか、シャオリエがアーモンド型の瞳を細める。
「ルイフォン――。ルイフォンは何処ですか!?」
執務室にいるとばかり思っていた彼が、いないと気づいたときから、胸騒ぎがしていた。
彼は自責の念にかられていたはずだ。だから、彼は悪くないのだと、自分たち姉弟は彼に救われたのだと、伝える必要があった。
「メイシア」
イーレオの低い声が、静かに響いた。
「ルイフォンは、こう言った」
――親父さんが戻る可能性があったのか、なかったのか、それは分からない。
でも、メイシアは俺を気遣って『絶対に戻らなかった』と言い張るに決まっている。『戻るかもしれなかった可能性』を信じて、悲しむことができない。
そんなのは、間違っている。
「ルイフォンは、何処にいるんですか!」
――メイシアの親父さん、本当にいい人だったんだ。子供たちが無事だというだけで大泣きして。
素朴で優しくて。のんびりと、穏やかな生活を送ってきた人だ。……送るべき人だった。
――メイシアもそうだ。あいつは危険なんか知らない世界の人間だ。
警察隊が屋敷から出ていったあと、人工知能の〈ベロ〉に俺がショックを受けていたとき、あいつは俺にこう言ったんだ。
『無事だったことを喜びたい』。
それだけのことがどれだけ大切か、俺に教えてくれた。
――生きる世界が違ったんだ。
俺にとっても、親父にとっても、あいつが魅力的なのは当然だ。
だって、生きる世界が違って、見たこともない存在で、知らない世界を見せてくれて……。
惹かれないわけがないじゃないか。
――親父、あいつを元の世界に戻してやってくれ。頼む。
俺が、鷹刀が、あいつの父親を殺した。
そんなところに、あいつをおいておきたくない。
――あいつを『取り引き』から解放してやってくれ。
もう、『取り引き』とか、人間的魅力とかの範疇を超えているだろう?
あいつの要求は父親の『救出』だった。『殺害』じゃない。
鷹刀の人間である俺が殺したなら、あいつの取り引きを果たしていないどころか、逆のことをしたんだ。
――俺は、助けるべき人間を、殺した。
高潔であらんとする鷹刀の人間として、あるまじき行為をした。
「ルイフォンは!? ルイフォンは、何処!?」
メイシアは、イーレオに詰め寄る。
掴みかからんばかりの距離で叫びながら、……その先の言葉を聞くべきではないと分かっていた。
「『責任を取って、俺は出ていく』――ルイフォンは、そう言って俺に頭を下げた」
「あぁ……」
糸の切れた操り人形のように、メイシアの体がぺたんと床に落ちた。
「ルイフォン……」
視界に映るのは、絨毯に広がる大量の血痕。〈ベロ〉による殺戮の跡。いずれ取り替えられ、見た目に綺麗になったとしても、血塗られた事実が消えるわけではない。そんな場所が凶賊(ダリジィン)の生きる場所だ。
「……違う。ルイフォンは鷹刀を出ると言っていたの。凶賊(ダリジィン)でも貴族(シャトーア)でもなく、一緒に居ようって……」
メイシアは誰に言うわけでもなく、呟く。
『そばに居てほしい』
『……そばに居たら、お前も巻き込むのかもしれない。ごめんな。けど――』
『――この先、俺はお前なしの生活なんて考えられないから』
優しいテノールを聞いたのは、つい昨日のことだ。
それなのに、ルイフォンは彼女を置いて、ひとりで何処かに行ってしまった。
「……逢いたい」
メイシアの頬を、ひと筋の涙が流れた。きらりと光る雫は床に落ち、どす黒い血糊の上に塗り重ねられて輝きを失う。
「メイシア……」
頭上に、イーレオの静かな低音が降りてきた。。
「俺も、お前とルイフォンを逢わせてやりたいと思う。……けど、あいつが、頭を下げて俺に頼んだんだ。『メイシアを貴族(シャトーア)に戻してほしい』と」
「……」
「それに、お前にはハオリュウがいる。お前が藤咲家を出たら、彼は父親に続いて異母姉まで失う。それでいいのか。……俺は迷うよ」
沈痛な面持ちで、イーレオはそう言った。
ハオリュウは大怪我を負った。ミンウェイの処置のお陰で大事には至らなかったが、足に障害が残るという。しかもこの先、彼は年少の身で当主として立つことになる。相当な不安を抱えていることだろう。
執務室が静まり返る。
春の嵐が、いよいよそこまで近づいてきたのか、外がふっと暗くなった。薄暗い窓硝子に、床に座り込んだメイシアの姿が淡く映し出される。肩を落とし、生気を失ったような角度に首を曲げているのが、朧(おぼろ)げな像でも見て取れた。
彼女にも分かっている。
イーレオを通して聞いたルイフォンの言葉は、苦しいほどにメイシアを愛していた。とても綺麗に愛していた。
でも――。
「我儘でいいって。欲しいものを欲しいと言っていいって……ルイフォンは言ったの」
愛することは、決して綺麗なだけではない。優しい言葉と温かい微笑みだけの世界ではない。
傷つけ合ったり、すれ違ったり、伝わらなかったり。泣いたり、怒ったり、笑ったり……。
「逢いたい」
小さな呟きが、部屋の空気の流れに逆らう。
「逢って、もう一度、あなたが欲しいって、言いたい……! 伝えなきゃ、駄目なの……!」
吐き出された想いの奔流が渦を巻き、力強く突き抜ける。
不意に――。
「メイシア」
低い声が響いた。
メイシアは初め、イーレオの声だと思った。けれど、聞こえた方向が違う。
「私がルイフォンのもとに連れて行ってやろう」
「エルファン様……!?」
次期総帥エルファン。父親そっくりの容貌と声質を持つ、イーレオの長子。互いに見知ってはいても、メイシアと彼は、直接、言葉を交わしたことはなかった。思わぬ申し出に、メイシアは瞳を瞬かせる。
「このまま別れたら、お前もルイフォンも、一生後悔するからな」
今まで、ひとことも発さなかった彼が、ただの事実だと言わんばかりに端的に述べた。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN