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第八章 交響曲の旋律と

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6.哀に溶けゆく雨雫−1



 どこからともなく現れた暗い雲が、蒼天を侵す。昼過ぎまでは眩しいくらいだった陽光を遮り、世界を灰色に塗り替えていく。
 まもなく桜流しの雨が来そうだと、イーレオは執務室の窓から覗く花を憂えた。つい先ほどまで、華やかに輝いていたというのに、まさに泡沫(うたかた)。なんとも儚い。
 彼は溜め息を落とし、執務机に肘をついた。組んだ指に顎を載せる。
 視界に映るのは、向かい合うように並べられた、応接用の二脚のソファー。片側には、昨晩から屋敷に入り浸りのシャオリエが足を組んで座っており、その向かいには、次期総帥エルファンが眉間に皺を寄せて押し黙っている。
 背後には、いつもの通りに護衛のチャオラウが控えているが、総帥の補佐を担うミンウェイの姿はない。医者でもある彼女は、大怪我を負ったハオリュウの手当てに奔走していた。
「部屋が暗いわね」
 男どもの陰気さに、耐えかねたシャオリエがぼやきを漏らした。普段なら、わざわざ口に出して言わなくてもミンウェイが照明をつけていることだろう。
 慌ててエルファンが立ち上がろうとするが、それより先にチャオラウが動いていた。ぱちり、という音と共に、部屋が明るくなる。
 これで少しはましになるかと息をついたシャオリエだったが、辛気臭い顔がよりはっきり見えるようになっただけ、という現実にうんざりした。
「ルイフォンは、自分で考えて行動したんだから、仕方ないでしょう?」
 ソファーに背を預け、シャオリエは周りを睥睨する。アーモンド型の瞳は、ルイフォンではなく、この場にいる者たちへの苛立ちを訴えていた。
「分かっているさ、シャオリエ」
 溜め息と共に、イーレオの魅惑的な低い声が吐き出された。彼は、やりきれなさに額を歪め、哀しげに笑う。
「自棄になっていたなら、俺は止めた。でも、そうじゃなかった。あいつは冷静だった」
 だから、認めてやるしかないのだ。
 ――メイシアとハオリュウの父、藤咲コウレンは〈蝿(ムスカ)〉によって別人にされた。脳に他人の記憶を書き込まれた〈影〉と呼ばれる存在に。そのことに、いち早く気づいたのはハオリュウだったが、結果としてルイフォンが〈影〉を殺した。それが救いになるのだと信じて。
 重傷のハオリュウにメイシアを付き添わせ、ひとり執務室に来たルイフォンは、事態の報告を終えるとイーレオに頭を下げた。
『総帥――いや、親父。頼みがある』
 ルイフォンの重いテノールが耳に残っている。母親そっくりの猫の目が、突き刺さるように鋭く光っていた。
「まさか、〈影〉に記憶が戻るとはな……」
 イーレオが呟く。
「それでも、〈影〉が本人に戻ることはないわ。そんなことができるなら、緋扇シュアンに殺された警察隊員は、もっと言葉巧みにシュアンを誘惑したでしょう」
 肩を落とす一族の総帥を叱りつけるように、シャオリエはアーモンド型の瞳を冷たく光らせる。
「確かに、ごくまれに断片的な記憶が残っていることはあるわ。でも、それだけよ」
 苛立ちを含んだ声で、彼女はぴしゃりと言い放った。
 執務室の空気が沈む。
 ふと、シャオリエがソファーにもたれていた背を起こした。胸元のストールが、ふわりと揺れる。
「……来たみたいね」
 彼女は体をずらすように、足を組み替えた。
 この場にいる者たちは皆、気配を読むことに長(た)けている。だから、誰が来たのかは分かっていた。彼らは思い思いに頷くと、憂鬱な顔を扉に向けた。


 両目を真っ赤に腫らしたメイシアが、緊張の面持ちで執務室に入ってきた。血の気の失せた顔は、白磁よりも白い。服は着替え、髪は整えてある。しかし、彼女を見た瞬間、誰もが『ぼろぼろだ』と感じずにはいられなかった。
 彼女の視線は、ちらちらと落ち着きなく揺れ動いていた。ルイフォンの姿を探しているのだろう。そして、彼がいないことを悟ると、彼女の顔は不安に彩られた。
 エルファンやシャオリエに会釈しながらソファーの脇を抜け、メイシアは執務机の前に立つ。濁りのない黒曜石の瞳でイーレオを見つめ、彼女は深々と頭を下げた。
「このたびは、藤咲家が大変、ご迷惑をおかけいたしました。あとで改めて異母弟を連れてまいりますが、まずは私からお詫び申し上げます」
 凛とした声で、彼女はそう言った。
 イーレオは、虚を衝(つ)かれた。
「何故、お前が――藤咲家が謝るんだ?」
 メイシアが執務室に来ることは分かっていた。けれど、彼女がなんと言ってくるかは予測できないでいた。ただ少なくとも、『藤咲家』として謝罪の言葉を出すとは、考えてもいなかった。
 メイシアは、まっすぐにイーレオを見上げる。
「異母弟ハオリュウは、誰よりも先に父が〈影〉にされていることに気づきました。だから身内で片を付けようとしたのですが、力及ばず、結果として鷹刀を――ルイフォンを巻き込みました」
 言葉だけは、毅然としていた。
 けれど、今にも壊れそうな、繊細な硝子細工の体は震えていた。それでも胸元のペンダントを握りしめ、気迫だけで彼女は自分を支える。
「そもそも、囚われた時点で父が〈影〉にされていたのなら、父を助け出してほしいという依頼は、不可能なものでした」
「メイシア、いったい……?」
 彼女の意図が分からず、イーレオは困惑する。そこに、すっと高い声が割り込んだ。
「お前はそうやって藤咲家に落ち度があることにして、ルイフォンが父親を殺害したことを罪とみなさないようにしているのね」
「シャオリエさん……!」
 メイシアは叫び、ソファーのシャオリエを振り返る。
「ルイフォンは父を殺したわけじゃありません! 父を救ったんです!」
 きっ、とシャオリエを睨みつけた瞳から、涙がこぼれた。彼女は歯を食いしばり、嗚咽をこらえる。
 そんなメイシアを鼻で笑い、シャオリエは組んだ足を戻しながら、ぐっと身を乗り出した。
「そう思うのはお前の勝手だわ。でも、現実はこう。――ルイフォンの投げた刃がお前の父の命を奪った。ルイフォンは、初めから殺すつもりで眉間を狙っていた。ご丁寧にも、刃には致死の毒が塗ってあった……」
「あのときの父は、父ではありませんでした! ハオリュウを本気で殺そうとしていました。あれは〈影〉です。父じゃない!」
 メイシアは、全身で言葉を叩きつけた。大きく肩が揺れ、黒髪が舞う。けれども、すべてを見透かしたようなアーモンド型の瞳が、冷酷に嗤う。
「でも、死の間際にお前たちと会話したのは、確かにお前の父親だったのでしょう? ならば、元に戻る可能性はあったのかもしれない。けれど、ルイフォンが殺してしまったから、可能性はゼロになってしまった。……違うかしら?」
「違います!」
 噛み付くように、メイシアは言い返す。
「あれは、父が亡くなる直前だったからこその奇跡です! 本来なら、父は〈影〉のまま亡くなるはずでした。それが、奇跡が起きて、最期に父と逢えたんです」
「欺瞞よ。ルイフォンが、お前の父を殺したという事実から目を背けているわ」
 メイシアの反応を楽しむように、シャオリエが艷然と口の端を上げる。まるで挑発するかのように顎を上げると、長めの後れ毛が襟元で嫋(たお)やかに転がった。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN