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第八章 交響曲の旋律と

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 メイシアは父の手を握りしめ、頬を寄せる。黒曜石の瞳は大きく見開かれ、涙があふれ出てきても瞬きひとつしなかった。
 声を殺し、耐えるように、むせび泣く。
 静かな、静かすぎるメイシアの慟哭……。
 ――すべて、承知の上だった。
 ルイフォンは、迷わなかった。
 銃声が聞こえたときに、覚悟していた。だから部屋を出る前に、両袖に刃を仕込んだ。
 けれど今、彼はメイシアのそばに行って、肩を抱くことはできなかった……。
「ルイ、フォン……」
 ハオリュウが彼を呼んだ。
 ルイフォンは黙って頭を下げた。
「あなた、は、僕たちを、助けた……。ありがとう……」
 それだけ言うと、ハオリュウは力尽きたように、起こしていた上半身を床に伏した。
「ハオリュウ!? おい、ハオリュウ!」
 ルイフォンは叫ぶ。走り寄る足の下で、硝子の砕ける音がした。
 抱き起こしたハオリュウは、血の気の引いた顔で荒い息をしていた。
「大丈、夫、ですよ、と、……言いたいところ、です、が、ちょっと、きつい……ですね」
「今、ミンウェイを呼ぶ」
 ルイフォンが携帯端末を手にしようとしたとき、メイシアの「お父様!?」という甲高い声が聞こえた。
「お父様!? 本当に、お父様なの? ――ハ、ハオリュウ!」
 この場には不似合いな、歓喜の混じった驚愕の声。何があったのかと、ルイフォンが問いかけるよりも先に、メイシアが叫んだ。
「ハオリュウ、お父様が!」
 彼女は長い髪を翻し、こちらに半身を向けた。輝かせた目が、異母弟を呼んでいる。
「ハオ、リュウ! ハオリュウ、いる……だ、ね! 誘拐……、解放された、ん……」
 青白い顔のコウレンが、たどだとしくも嬉しそうに叫んだ。
 その眉間には生々しい刃の傷があり、毒に侵され変色していた。もはや、口の聞ける状態ではないはずだった。
 何が起きているのか――そんなことを考えている場合ではなかった。ルイフォンは、ただ反射的にハオリュウを抱きかかえ、コウレンのもとに連れて行く。
 コウレンは、ハオリュウの姿を求めるように、弱々しく指先を動かしていた。ルイフォンは膝をつき、ハオリュウを下ろす。
「お父様、ハオリュウは、そこにいます!」
「どこ……かな? なんか……目が、霞んで……、ね。歳、かな、はは……」
 コウレンが照れたように笑う。体が自由に動くのなら、恥ずかしそうに頭を掻いているのだろう。そんな姿がありありと浮かんできた。
 メイシアの語った、優しい父親。当主としては頼りないけれど、暖かくて穏やかな、素朴な人物。初めて会う人だけれど、ルイフォンにも分かった。そこにいるのは、確かに藤咲コウレン、その人だと。
「父……様……!」
 血相を変えたハオリュウが、腕にしがみつくように父に触れた。
「ああ、ハオリュウ……! 無事……ったんだね……。無事で、無事で……! 君が、無事……よかった……。本当に、よかった……」
 コウレンの目から、涙がこぼれ落ちた。
 透明な雫は、あとからあとから流れ落ち、とどまることを知らない。
 大の大人の男が、子供たちの父親が――。
 なんのてらいもなく、それが当然のことであるかのように――。
「ごめん……ね。頼りない、父で……。君……たく、さん……怖い、思い……辛い……させた、ね」
「違うっ! 父様はっ……!」
 ハオリュウのかすれた声が裏返る。
 彼のためにこぼされた涙が、熱くて痛くて――伝えたい思いが陳腐な言葉になって、ハオリュウの口から飛び出した。
「父様! 僕は、父様が、好きです!」
 ハオリュウはずっと、父のことをどこか物足りない目で見ていた。嫌いではなかった。けれど、好きだと思ったことはなかった。そのはずだった――。
「そう……か。嬉しい、なぁ……」
 子供のように無邪気に、コウレンが笑う。
「メイシア……も、心配、かけた……ね。君の、泣き声……聞こえ……よ」
「お父様……!」
「ああ……、君たちの……顔、見たい、な……」
 コウレンがそう呟き、苦しげに息を吐いた。
「お父様!」
「父様!」
 メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に叫ぶ。
「ああ……、見えて……きた……、君たちの顔……」
 そう言って、コウレンは嬉しそうに笑った。
 心から幸せそうに笑った。
「……私の、大切な……宝物……」
 わずかな腕の動きが、ふたりを抱き寄せようとしているコウレンの心を示していた。
 それが、最期だった。
 メイシアが泣き崩れた。動かぬ父の手を握りしめ、声を詰まらせながら、必死に何かを語りかけていた。彼女がしゃくりあげるたびに、長い黒髪が揺れる。
 そんな異母姉の背に、ハオリュウが手を添える。今にも気を失いそうなほどの重傷のはずなのに、彼はしっかりと異母姉を支えていた。
 ――これは、覚悟していた光景だ。
 激しい苦しみを伴いつつも、メイシアを、ハオリュウを、コウレン本人を救う手段である……はず――だった。
 ルイフォンは、よろけるように一歩、後ずさる。
 目の前が真っ暗だった。心臓が勢いよく収縮と膨張を繰り返し、今にも飛び出しそうになる。
 ――〈影〉となった者は、決して元に戻らないのではなかったのか?
 疑問が、頭の中を渦巻く。
 ――今、ここで死んだ者は、間違いなくメイシアの父、藤咲コウレンだった……。
 この状況を冷静に分析し、導き出される事実……。
 ――〈影〉の記憶が戻るのなら、――〈影〉が本人に戻るのなら、自分のしたことは……。

 ただの殺人だ――。


作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN