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第八章 交響曲の旋律と

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5.夢幻泡影の序曲−3



 リュイセンが部屋を出ていき、ルイフォンはひとり、ソファーに体を投げ出した。
「メイシアに、なんて言えばいいんだよ……」
 両手で顔を覆い、視界を閉ざす。
 彼の論理的解析と、兄貴分の野生の直感が、同じ答えを出したならば間違いないだろう。
 ――メイシアの父、コウレンは〈影〉に体を奪われた。
 そして、どういった経緯かは知らぬが、ハオリュウがいち早く気づき、他の者から真実を隠そうとしている。
 彼の目的は分からない。けれど、異母姉メイシアのためなのだろう。
 ともかく、ハオリュウと話をしたい。――ルイフォンは頭の中を整理する。
 ハオリュウは父親を見舞っていて、だからコウレンの部屋に行けば会うことはできる。しかし、メイシアもそこにいるはずだ。ふたりきりで話をするためには、ハオリュウが割り当てられた客間に戻るまで待たねばなるまい。夕方くらいまで無理だろうか。
 それより気になるのが、同じ話を聞いたメイシアが、父が〈影〉であると気づいてしまわないか、ということだ。ハオリュウが偽者の父をフォローして、ボロが出ないようにしているようだが、彼女は聡明だ。果たして……。
 そんなことを考えながら、ルイフォンは前髪を掻き上げる。
 ――緋扇シュアンは、知人であった先輩を〈影〉にされ、殺したという。先輩の体をいいように弄ばれるくらいならば、と。
 なら、コウレンは?
 メイシアの父親でありながら、別人である彼のことは、どうすればいい……?
『お前らは、いい奴だな……』
 不意に、夜闇の別荘で聞いた、斑目タオロンの言葉を思い出した。
『だから……、俺が悪役になるほうがいい』
 タオロンはそう言って、コウレンを撃った。結果としては、外してしまったが――。
「…………」
 ルイフォンの手が頭から滑り落ち、ソファーから、だらんと垂れた。
 
 遠くから、けれど確かに、銃声が聞こえたのは、それから少しあとのことである。
 ルイフォンは飛び起きた。
〈影〉が何かしたのだと、迷うことなく悟った。――と、同時に彼は走り出した。


 ルイフォンは、コウレンの部屋の扉を開け放った。
 視界に映るのは、明るい陽射しの注がれる窓。――逆光に照らし出されるシルエット……。
「メイシア!」
 ルイフォンが叫ぶ。
 半分重なったような、ふたつの影が、同時に動いた。
「ルイ……!」
 彼の名を呼ぶメイシアの口を、コウレンがふさぐ。そして、彼女の体をぐっと引き寄せた。
「動くな!」
 そう言いながらも、ルイフォンを恐れるかのように、コウレンは後ずさる。
 コウレンの顔に、斜めに陽が射し込んだ。片目が黒く沈み、反対の頬が不気味に白く浮き上がる。その顔は、追い詰められた狂人の形相――。
 ……コウレンは、メイシアに向かって銃を突きつけていた。
「くっ……」
 ルイフォンは小さく息を漏らした。
 乱闘があったのだろう。コウレンの足元には、花瓶の破片が散っている。
 そして、硝子の鋭く光る床に、ハオリュウがいた。その姿を――ルイフォンは、にわかに信じることができなかった。
「ハオリュウ……?」
 下半身が血にまみれていた。
 床に赤い水たまりが広がっている。規模は決して小さくない。そのことを示すように、彼の顔色は透き通るように白かった。額が割られ、流れ出た血の筋だけが赤い。
 それでもハオリュウは、両手で上半身を支え、コウレンを睨みつけていた。
 血の臭いが鼻を突く。
 ハオリュウを凝視していたルイフォンは、勢いよく顔を上げた。彼の背で、一本に編まれた髪が跳ね、金色の鈴が光る。
「許さねぇぞ……」
 ルイフォンとは思えないくらいに低く、唸るような声。眼光だけで斬れそうな、鋭い目を向ける。
「どうせ、お前も、儂(わし)が〈影〉だと知っているのだろう?」
 しゃがれたコウレンの声が響く。
「ならば、分かるな? ――この娘を殺されたくなければ、儂(わし)の言う通りにしろ」
 口をふさがれたメイシアが、力なくうなだれた。陰りの中の彼女の顔は鮮明には見えないが、やり場のない思いは伝わってくる。
「何を要求する気だ?」
 ルイフォンは尋ねた。
「そうだな。金を用意してもらおうか。儂(わし)は新しい人生を生きねばならぬ。金がなければ始まらない」
「如何にも、悪党の言いそうなことだな」
 吐き出すように、ルイフォンは言い捨てた。コウレンの顔の影が濃くなり、むっと鼻に皺を寄せる。
「口のきき方に気をつけろ。この娘がどうなるか、知らんぞ」
「……っ」
 ルイフォンは唇を噛んで、押し黙る。
「ああ、そうだ。儂(わし)をこんな目に遭わせた斑目一族の総帥と、厳月の当主と、それから〈蝿(ムスカ)〉という男を暗殺しろ」
「なっ……!?」
「凶賊(ダリジィン)なら、暗殺など、お手の物だろう?」
「ふざけんな……」
 ルイフォンの悪態を、コウレンは鼻で笑う。
「奴らの死が確認できるまで、儂(わし)はこの部屋で娘と待つ。食事は、お前たちの総帥と同じものを持ってくるように。娘に毒味をさせるから、下手なことは考えないほうがいいぞ」
 初めは脅えの見えたコウレン――〈影〉も、要求を重ねていくうちに調子づき、口が滑らかになっていった。ルイフォンはぎりぎりと奥歯を噛み締める。
「言いたい放題だな……」
「逆らう気か? なら、儂(わし)の言うことをききたくなるように、そこの死に損ないの小僧を撃とう。そいつは儂(わし)を殺そうとしたから、ちょうどいい。人質は娘がいれば充分だ」
 勝ち誇ったように言い放ち、正気が弾け飛んだかのように嗤う。
 コウレンは愉悦の顔でハオリュウに銃口を向けると、ねっとりとした声で「さあ、どうする?」とルイフォンに問いかけた。
 ルイフォンは、ややうつむき加減になって、ぐっと拳を握りしめた。
 腹の底から怒りが噴き出す。胸の中をやり切れなさが渦巻く。それらをすべて押し出すように、細くゆっくりと、彼は息を吐いた。
 肺の空気を完全に出し切ったあと、背を起こしながら息を吸う。再び前を向いた彼は、表情の消えた無機質な顔をしていた。冷ややかな瞳がコウレンを映す。
 そして――。
 ルイフォンは、握りしめたままの両手を緩やかに上げた。
「良い心がけだ」
 コウレンの顔が卑劣に歪む。
 そのとき、ルイフォンの左手が、窓の陽を反射して、きらりと光った。
「眩し……」
 鋭い光がコウレンの目に刺さる。
 次の瞬間、ルイフォンの右手が振り下ろされた。輝く尾を伸ばす、彗星のような刃が、一直線にコウレンに向かっていく――。
 鈍い音がした。
 コウレンの眉間に、菱形の刃が突き刺さっていた。
 そのまま、体が後ろに倒れる。――続く、地響き……。
 衝撃に、額から刃が抜け落ちた。床に散らばる硝子の欠片とぶつかり、悲しいくらいに澄んだ高い音を立てる。窓からの陽射しを跳ね返し、コウレンの目をくらませたのと同じ光を放った。

「…………!」

 メイシアの、声にならない悲鳴が響いた。髪を振り乱し、コウレンに駆け寄る。
 力なく横たわったコウレンの手には、もはや拳銃はなかった。
「お父様……!」
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN