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第八章 交響曲の旋律と

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5.夢幻泡影の序曲−2



 ハオリュウの意識は朦朧としていた。
 かすかに開いた目が、悪鬼と化した父の顔を映す。それを恐ろしいとは思わなかった。ただ、せめて道連れにしなければ、と焦っていた。
 けれど、懸命に腕を振り上げても力は乗らず、殴りつけたところで、まるで効果がない。
 絞めつけられた喉が気持ち悪かった。嘔吐感がこみ上げる。 
「お父様、やめて!」
 近くで、異母姉メイシアの叫びが聞こえた。
 いつの間に、こんな近くまで来ていたのだろう? ハオリュウはそう思い、はっとした。
 ――姉様、危ない! 来るな!
 失いかけた意識が、急にはっきりとした。
 異母姉の唇は震えていた。突然、異母弟が父に銃を向け、父が異母弟の首を絞めていたら、混乱するのは当然だろう。
「だ、誰か……!」
「待て! これには、わけが……」
 メイシアが助けを呼ぶ。その声に動揺したコウレンの手が緩む。
「ねぇさ……、にげ、てっ……」
 ハオリュウは咳き込みながら、懸命に声を出した。
「とぅさ……、かげ……」
 その瞬間、どす黒い顔をしたコウレンが信じられないほどに素早く動き、ハオリュウの手から拳銃を奪った。そして、ひと呼吸する間もなく、引き金を引いた。
「駄目――――!」
 メイシアの絶叫――!
 銃声よりも、衝撃が、激痛が、ハオリュウの五感を覆い尽くした。
 耳の中が、轟音に満たされている気がするのに、何も聞こえず。
 目の前が、何かの色で埋め尽くされている気がするのに、何も見えず。
 ……漂っているはずの硝煙の臭いさえも、感じ取れない。
「この、こいつ――っ!」
 コウレンが悪罵(あくば)した相手は、ハオリュウではなかった。
 ――メイシアだった。
 彼女は咄嗟にコウレンの腕にしがみつき、銃口をそらした。心臓を貫くはずだった弾丸は狙いを外し、しかしハオリュウの太腿を撃ち抜いたのだった。
 どくどくと、物凄い勢いで血が流れ出るのを、ハオリュウは感じた。
「ハオリュウ! しっかりして!」
 叱責のようなメイシアの叫びが、ハオリュウの耳朶を打つ。
 撃たれたのは足だ。……致命傷にならないはずだ。…………異母姉が守ってくれたのだ。……だから大丈夫。…………それよりも、早くこの場から彼女を逃さないと……。
 そんな思いが、彼の頭をぐるぐると駆け巡る。
「ハオリュウ!」
「邪魔するな!」
 コウレンがメイシアを振り払った。華奢な彼女は、小さな悲鳴を上げて突き飛ばされる。
「ハオリュウは、もはやハオリュウではない! 斑目一族に囚えられている間に、おかしな洗脳をされたのだ!」
 ハオリュウは耳を疑った。
「そいつはハオリュウの姿をしているが、儂(わし)を殺しに来た暗殺者だ! 儂(わし)を殺そうとしているところを、お前も見ただろう?」
「な……に、をっ……!」
 そんなハオリュウの呟きは、コウレンの大声に掻き消される。
「斑目一族にはそういう恐ろしい技術があるのだ! 儂(わし)は囚えられているときに、それを盗み聞きした!」
 コウレンは――コウレンの中にいる厳月家の当主は、ずる賢さにおいては決して侮れない人物だった。だから、ハオリュウと自分の境遇をすり替え、もっともらしい説明をすることで、メイシアを味方につけようとしている。
〈影〉が狡猾な笑みを浮かべ、ハオリュウを見下ろす。
 優しい父の顔が、卑劣な悪巧者(あくこうしゃ)の顔に染め替えられていく……。
「ふざけ……る、な!」
 腹の底から、怒りが湧いてきた。純粋な嫌悪に、肌がぴりぴりする。殴り殺してやりたい――!
 ハオリュウは、両腕で上半身を起こす。撃たれた足が床をこすり、赤い筋を描く。
 美しい文様を持つ絨毯に、酸鼻な装飾が施された。けれど、そんなのは今更だった。絨毯の滑らかな毛足は、撒き散らされた花瓶の水と、無残に踏みつけられた花の残骸に、とっくに犯されている。
 足の痛みで遠のきそうになる意識を叱咤し、両手で這うようにコウレンへと向かう。飛散した花瓶の欠片が掌に食い込み、皮膚を裂いた。
 許せなかった。こんな男が父を穢すことなど、断じて許せなかった。
 ――と、ハオリュウ阻むように、メイシアが割り込んだ。
「お父様は、〈影〉のことをご存知なのですか?」
 メイシアは緊張気味の、けれど冷静な声で尋ねた。
「お前も、知っているのか?」
「はい。イーレオ様を狙って送り込まれた〈影〉について、先ほど緊急の報告会が行われ、詳しい説明を受けました」
「どい、て……!」
 かすれたハスキーボイスに苛立ちが混じる。
 異母姉は、〈影〉である父に、〈影〉の話をしている。何故だ!? そいつこそが、〈影〉であるのに――!
 けれどハオリュウの声は、異母姉に聞こえなかったのか。彼女はまったく動かなかった。
「お父様の部屋に来る前、お茶をいただこうと思って厨房に行ったんです。そしたら、メイドに言われたんです。『お父様はハーブティーがお好きなんですってね。異母弟さんが教えてくれましたよ』と」
 ハオリュウとコウレンが、同時に息を呑んだ。ハーブティーは、父が〈影〉なのか否かを見極めるために、ハオリュウが使った手段だった。
「お父様はハーブティーが苦手なのに――ハオリュウがそれを知らないはずがないのに。おかしいと思ったんです」
「そうだ! そうなのだ! このハオリュウは〈影〉なのだ!」
 コウレンが高笑いでもしそうな勢いで、声を張り上げる。
 まさかとの思いが、ハオリュウを貫いた。まさか、異母姉に疑われるなんて……。惨めな床の上から、ハオリュウは愕然と彼女を見上げる。
 そのとき。
 自然に下ろされていたメイシアの両手が、少しだけ横に広げられた。まるで異母弟を隠すかのように……。
 ハオリュウは、その後ろ姿を知っていた。子供のとき彼を庇った背中だった。まだ彼の背が彼女よりもずっと低くて、ちょうど今みたいに見上げていたころの――。
 メイシアは、コウレンと向き合ったまま話を続ける。
「それから、ハオリュウのところに野蛮な警察隊員が尋ねてきた、とも聞きました。斑目は警察隊を抱き込んでいましたから、何か悪い相談をしていたのではないかと」
「それだ! だから、こいつは儂(わし)の命を狙ったんだ!」
 メイシアの話を強引に都合よく結びつけ、コウレンが自身を正当化する。喜色を浮かべるさまは、とても元厳月家の当主とは思えないような小者の様相をしていた。
 そんな醜い嗤いを聞きながら、ハオリュウは異母姉の意図を正確に受け止めていた。
 彼女は、ハオリュウの行く手を遮ったのではなく、無謀に立ち向かおうとした異母弟を守ったのだ。銃を持った相手を刺激しないよう、細心の注意を払いながら。状況は理解していると異母弟に伝えながら。
 異母姉の、無言の声が聞こえる……。

 ――〈影〉という技術は報告で聞いたから知っているわ。
 警察隊員の緋扇シュアンさんと会ったのなら、ハオリュウも知っているのよね?
 ハーブティーをお父様にお出ししたのなら、あなたもお父様が〈影〉ではないかと疑ったんでしょう?
 そして、今、あなたとお父様が敵対しているということは……お父様は、やはり〈影〉にされてしまった、ということなのね……。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN