炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
スンは偶然の美しい光景に眼を奪われたようで、笑顔で女官に話しかけている。女官は畏れ入ったようで、その場に跪いていた。やがて、スンが手を伸ばし、その娘の髪に触れた。触れただけではない、オクチョンの見ている前で、彼は若い女官の髪を愛おしげに何度も撫でた。
愕いた蝶はひらひらと舞い上がり、また天高く舞い上がり、見えなくなった。
スンは、まだ女官と親しげに話している。女官の方も笑顔で応え、二人が相当親密なのは遠目からでも判る。
オクチョンはチョゴリの下で組んだ手を震わせた。
「あの者が例の女官か?」
それだけで、申尚宮はオクチョンの意図を理解し、頷いた。
「さようにございます」
「名は」
「キム・セリョンと申すそうです、中殿さま」
これはミニョンがすかさず応えた。
「そうか」
オクチョンは、その場から身を翻した。
「中殿さま、国王殿下にご挨拶をなさらなくてよろしいのですか?」
ミニョンが慌てて後を追ってきて、訊ねる。オクチョンは振り向きもせず、低い声で応えた。
「他人の恋路を邪魔する者は犬に食われろと言うわ」
使用人の端々にまで気遣いを見せるオクチョンは普段から自分の感情を露わにすることはない。稀に見るオクチョンの不機嫌さに、背後の申尚宮とミニョンは顔を見合わせた。
夕刻、オクチョンは申尚宮に命じた。
「あの女をここに連れてきて」
キム・セリョンが就善堂の前に引き立てられてきた時、オクチョンは申尚宮やミニョンの他、数人の女官を従えて待っていた。
セリョン自身は何故、自分が突然、王妃に呼びつけられたのか皆目判っていないように見える。そのいかにも純真そうな様子が余計にオクチョンの怒りを煽った。
何も知らぬげな初心(うぶ)なふりをして、この女はスンの気を惹いてお手つき女官になったのだ。
「そなた、何ゆえ、ここに呼ばれたかは判っておるのであろうな」
オクチョンの問いに、御前に引き出されたセリョンはかすかに華奢な身体を震わせた。
「私には何のことか、判りかねます。中殿さま」
セリョンは両手を後ろ手で縛られ、地面に座らされている。オクチョンはその前に佇み、セリョンを睥睨していた。
「ホウ、何のことか判らぬか」
オクチョンは嘲笑うかのように言い、セリョンに近づき、いきなりその右頬を打った。ぴしりと、乾いた音がその場に満ちた静寂に響く。
セリョンは紅くなった頬を抑え、瞳を潤ませた。
「中殿さま、私がどのような罪科を犯したというのでしょうか」
「まだ言うか」
オクチョンは次いで、左頬を打った。
「ううっ」
セリョンが痛みに可愛らしい顔をしかめ、涙を流す。
「この泥棒猫めが」
オクチョンは更にセリョンの両頬を打ち、セリョンは勢い余って地面に転がった。
そのときだった。地面に打ち伏したセリョンが突然、海老のように身体を折り曲げ咳き込み始めた。
コホコホ、と、しつこい咳はセリョンをかなり苦しめ続けた。オクチョンの美しい面は今や蒼白であった。経験者であれば判る、これは悪阻だ。
その時、就善堂に数人いる尚宮の一人が申尚宮に何やら耳打ちした。刹那、申尚宮が蒼褪めたのをオクチョンは見逃さなかった。
「申尚宮、いかがした?」
「実は」
口ごもった申尚宮に、オクチョンはいつもからは信じられないような厳しい声音で命じた。
「申せ」
「実は、このキム・セリョンなる者、懐妊しているそうでございます」
「―!」
オクチョンの眼が大きく見開かれた。
「中宮殿の尚宮他、朋輩たちもひと月ほど前から、この者の様子が変だと感じてはいたようです」
「体調を崩していたということか」
オクチョンが訊ね、申尚宮が頷いた。
「そのようです」
「確実なことなのか?」
「実のところ、この者が三日前、ひそかに内医院を訪れ、悪阻に効く薬を処方して貰っていると判明しています。どうやら金子を医官に握らせて口外しないように約束させたようではございますが」
フンと、オクチョンは鼻を鳴らした。
「何ヶ月だ?」
オクチョンはセリョンに問うた。憐れな女官はまだ、地面に転がったままだ。手を縛られているため、容易に身体が起こせないのである。
「腹の子は何ヶ月だと訊ねておる!」
「中殿さま、お許し下さいませ」
セリョンは泣きながら訴えた。
「ホホウ、私が一体、そなたの何を許してやるというのだ? 良人を寝取った女がまんまと寝取られた妻に許しを乞うと?」
オクチョンがギリっと歯を噛みしめた。
「ミニョン、鞭を」
言いかけ、首を振る。
「いや、鞭などでは生温い。薬を持って参れ。腹の子を堕ろす薬だ」
その言葉に、セリョンが色を失った。
「中殿さま、お許し下さい。後宮の風紀を乱した罪は我が生命と引き替えにしても構いません。なれど、お腹の子だけは助けて下さい。お慈悲を下さいませ」
堕胎薬と聞き、流石にミニョンは申尚宮と目配せし合った。
「中殿さま、お鎮まりになって下さい。この者が殿下の御子を身籠もっているとしたら、今ここで堕胎をさせるのは中殿さまにとっても良くありません」
「私は中殿であり国母だ。後宮の内命婦の長である私のすることに、殿下とて口だしはできぬ」
「それは、あくまでも建前です。承恩を受け、あまつさえ懐妊した女官は、もうただの女官ではありません。中殿さまの力をもってしても、殿下のお許しなく、その身に危害を加えることはできないかと存じます」
申尚宮の言葉はもっともだ。だが、このときのオクチョンは眼の前が白く染まるような嫉妬と怒りに我を忘れていた。
そこに、就善堂の別の尚宮が恭しく盆を捧げてやってきた。申尚宮が舌打ちした。
「そのようなものは不要だ、すぐに下げよ」
めざとく見つけたオクチョンが即座に言った。
「これへ持って参れ」
尚宮は申尚宮とオクチョンを交互に見、盆をオクチョンに渡した。
盆の上には、白く小さな平皿が載っている。その中には禍々しいほど黒い液体がたっぷりと満たされていた。
最早、これが何であるかは明らかだ。申尚宮が傍らから懸命に説得を試みる。
「中殿さま、なりません」
だが、オクチョンは顎をしゃくった。それを合図に、ミニョンと先刻の尚宮がセリョンの身体を引き起こす。尚宮がセリョンの身体を背後から羽交い締めらにし、ミニョンがセリョンの口をこじ開けた。平皿の薬を飲ませようとしても、セリョンが抵抗するので、なかなか呑ませられない。
更に数人がかりでセリョンを取り押さえ、漸く薬を半分ほど飲ませたときだった。
「そなたら、何をしている!」
悲鳴のような声が響き渡り、誰もが声の方を見た。
粛宗が信じられないといった表情で立っていた。突如として現れた王の姿に、その場にいた一同が息を呑んだ。セリョンに手をかけていた者たちもすぐに手を離した。
粛宗は飛ぶようにやってくると、地面に倒れ伏したセリョンを抱き起こした。
「セリョン、セリョン」
「お腹が、お腹が」
セリョンが涙を流しながら、粛宗に訴える。王に抱きかかえられたセリョンのチマを鮮血が汚していた。血は溢れるように流れ、セリョンを抱いた王の衣まで汚し、地面を濡らす。
「大丈夫だ、子はきっと助かる。心を強く持つのだぞ」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ