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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 王は泣きじゃくるセリョンの髪を撫で、優しく慰める。
「すぐにこの者を内医院に運ぶのだ。良いか、腹の子もセリョンも何があっても助けよ」
 粛宗が厳命を下し、セリョンは担架に乗せられ、女官たちによって運び去られた。
 その後は、たとえようもない気まずい沈黙が残された。粛宗は痛みに耐えるような顔でオクチョンを見た。
「中殿、これは、どういうことなのだ、説明してくれ」
「あの者が殿下の御子を懐妊していると聞きました」
「それで?」
 オクチョンは開き直ったかのように言い放った。
「健やかな御子を産んで欲しいと滋養のつく薬を飲ませたのです」
「滋養のつく薬を飲めば、流産するのか?」
 粛宗は憐れむかのような眼でオクチョンを見た。
「そなた自身も今、身籠もっている。既に何度も母となったそなたであれば、同じ母親の気持ちは判るはずだ。何故、あのように惨い仕打ちをした?」
―私以外の女に、殿下の御子を産ませたくなかったからです。
 それは、いかにしても口に出せるものではない。
 粛宗は溜息をついた。
「あの者が身籠もっているのは俺の子ではない」
「え?」
 オクチョンは惚けたような声を出した。
「セリョンには宮仕えに上がる前、婚約した男がいる。恐らく数ヶ月前に宿下がりした折、身籠もったのだろう」
「では、あの女官が殿下の承恩を受けているというのは」
「そんな噂があったのか。俺があの娘に必要以上に親しげにふるまっていたからだろうな、可哀想なことをした」
 粛宗が沈痛な面持ちで言った。と、就善堂の尚宮―堕胎薬を運んできた―が申尚宮に耳打ちした。この尚宮はセリョンについて内医院に行っていたのが帰ってきたのだ。
 報告を受けた申尚宮が一瞬、眼を伏せた。彼女は静かに進み出た。
「キム女官の腹の子は流れたそうにございます」
「そう、か」
 粛宗が短く呟いた。その頬をひと筋の涙が伝った。
「憐れなことをした」
 粛宗は小さく首を振り、幾度も同じ科白を呟いた。彼は最早、オクチョンの方を見ることなく、そのまま立ち去ってゆく。
 オクチョンは、遠ざかる粛宗の姿を茫然と見送った。
「中殿さま、あまりに短慮なおふるまいでした」
 申尚宮が諫めるように言うのに、ミニョンが言った。
「なれど、申尚宮さま、あの女官にも非はあります。腹の子が殿下の御子でないなら、何故、もっとはっきりと訴えなかったのでしょう。また、女官は他し男と通じてはならぬという後宮の規則もあります。あまつさえ、懐妊したというのであれば、腹の子が誰の子であろうと処罰の対象となるのは同じではありませんか」
 申尚宮が溜息混じりに言った。
「それはあくまでも表向きではないか。あの者はきちんと婚約しているのだし、ましてや婚約したのは入宮する前のことだ。一生奉公ではなく、あくまでも嫁入り前の行儀見習いとして上がったゆえ、処罰の対象にはならない。イ女官。そなたとてホ内官と長らく恋愛関係にあったではないか。ホ内官が内官でなければ、そなたもまたキム女官のように身籠もっていたかもしれないのだぞ」
 諄々と諭され、ミニョンは言葉に詰まった。
 オクチョンはあまりの衝撃に、二人のやり取りさえ耳に入ってはいない。
―あの女は承恩を受けたわけではなかった。
 なのに、オクチョンは一時の激情と嫉妬に我を忘れ、堕胎薬を飲ませてしまった。女官は流産したという。
―そなた自身も今、身籠もっている。既に何度も母となったそなたであれば、同じ母親の気持ちは判るはずだ。何故、あのように惨い仕打ちをした?
 あのときの粛宗の視線を、オクチョンは忘れようとしても忘れられるものではなかった。まるで、真冬の吹雪の夜のような冷たい視線だった。あの眼に見つめられただけで、身体の芯ばかりか心まで凍り付きそうだ。
 スンがあんな眼で私を見たことなんて、なかったのに。オクチョンは手のひらで顔を覆った。
「中殿さま。どうか、お心を鎮めて下さいませ。中殿さまは今、大切なお身体です」
 ミニョンが宥めるように言い、オクチョンの手を自分の手で包み込んだ。けれど、今はミニョンの手の温かさもオクチョンの心を少しも温めてはくれなかった。
「私、何ということをしたの」
 百歩譲って、あの女の腹の子がスンの子であったとしても、オクチョンが小さな生命を摘み取ることが許されるはずがない。ましてや、あの娘はスンではなく、別の男の子を宿していた。噂だけを鵜呑みにし、娘が王の子を懐妊していると決めつけて嫉妬に駆られて堕胎薬を飲ませてしまった。
―私は、いつから他人の生命を平気で踏みにじるような人間になってしまったの?
 あの時、側にいた申尚宮は堕胎薬を飲ませるのを止めようとしてくれた。なのに、自分は嫉妬に駆られて申尚宮の諫言も聞き入れず、行動に走ってしまったのだ。
 前王妃を呪詛し追放しておいておきながらの科白かもしれない。けれど、呪詛するのと、自分が直接手を下して生命を奪うのとはまた次元が違う。しかも、生まれ出ようとする幼い生命を摘み取ってしまった。
 オクチョン自身、去年の秋の終わりに流産を経験している。大量の血と共に流れて出た小さな我が子は息絶えていた―。血まみれの我が子を腕に抱いたときのあの胸が張り裂けそうな哀しみを思い出す度、今でも涙さしぐまれる。なのに、自分はあの女官に何をした?
 嫌がる女官の口をこじ開けさせ、堕胎薬を流し込んで―。オクチョンのときと同じように、あの女は大量の血と共に我が子を失った。けれども、オクチョンの場合は致し方なかった。誰にも止められない運命だったのだ。
 けれど、キム女官は違う。オクチョンが手を下さなければ、あの女は月満ちて無事に出産していたかもしれない。あの女と小さな生命が得たかもしれない幸福な未来をオクチョンがむざと奪い取った。
 オクチョンは、ミニョンに付き添われ、居室に戻った。大事を取って、ミニョンにすぐに床に入れられたものの、幾ら眼を瞑っても眠りはいっかな訪れなかった。浅い微睡みに落ちては悪夢にうなされ、目覚めるといったことが朝方まで続いた。
 それは恐ろしい夢だった。かつて大王大妃に仕えていた女官だった頃、池に突き落とされた直後に見た夢だ。
 就善堂に入ろうとしたオクチョンの上に大量の血が降ってくる―。もしかしたら、あの血の中には、キム女官とその腹の子が昨夜流した涙も混じっていたのではないか。
 オクチョンは悪夢にうなされながら、そんなことを考えた。
 ちなみに、その後、キム・セリョンは婚約者とは破談になった。セリョンは流産が原因で、二度と子のできない身体になってしまったのだ。医官から哀しい宣告を受けた彼女は自ら婚約者に婚約を解消することを告げたのだった。
 セリョンはその後も女官として働き続け、後年、粛宗の承恩を受け後宮に入った。流産した子も粛宗の子として記録には記載されている。流産の悲劇に見舞われて二年後のことであり、更に数年後に彼女は貴人という側室としては嬪の次に当たる高位の位階を与えられた。
 粛宗は子のできない宿命を背負ったこの側室を大切に遇し、寵愛も厚かったといわれている。
 セリョンがついに本当に承恩を受けたと聞いた時、オクチョンは思ったものだ。