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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「フン、恨みなど」
 娘は吐いて捨てるように言った。
「私は、あの女に恨みはない。さる上のお方から、あの女を消すように言われただけだ。だが、個人的に、私はあのような人間は虫酸が走るほど嫌いでな」
「なるほど、私怨か」
 ウォルメが頷けば、娘が初めて声を尖らせた。
「これは私怨などではないっ」
 それは余裕のある女の表情が初めて崩れた瞬間だった。
―やはり、ただ者ならぬ雰囲気を纏っているとはいえ、若いな。
 鉄壁の鎧で素顔を覆っているようでも、ふとした隙というのは生身の人であれば、誰しも持っている。ウォルメ自身、まだ十九歳と人生経験は短い方ではあるが、それ以上にたくさんの人々を見てきた。だから、判るのだ。
 弱みを持たない人間など、この世のどこを探してもいはしない。
 ウォルメは依然として喉元に刃を突きつけられたままではあるが、やや落ち着きを取り戻した。先刻の短いやり取りで、娘にも?弱み?があるのを知ったからだ。 「それで、私が生命を長らえるためには何をしたら良いのだ」
 ぞんざいに問えば、娘は、あっさりと刃を離した。
「私は禧嬪の弱点を握り、破滅に追い込む。 その手引きをしてくれ」
 ウォルメは、いかにもつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「権力争いか。お前の主君は相当の地位にある者だな」
「その辺りは知らぬ方がそなたのためだ。知りすぎた者は、いずれ消される」
 意外にも、娘は口だけでなく本当にウォルメの無事を気にかけているようであった。ウォルメは細い眼を更に眇めて、その真意を確かめるように美しい若い女を見つめた。
 だが、娘は棗型の黒い瞳に何の感情も浮かべてはいない。ウォルメはそれでも視線を逸らさず、きっぱりと断じた。
「お前らが手を下すまでもなかろうよ」
「それは、どういうことだ?」
 娘が訝しげに問う。ウォルメは笑った。
「何もせずとも、呪詛は失敗する」
 娘は一瞬、押し黙り、ウォルメを疑わしげに見つめた。
「そなたの申す意味が判らぬ。そなたは端から祈祷を成功させるつもりはないと?」
「そうではない」
 ウォルメは肩を竦めた。
「既に中殿さまの命運は尽きようとしている。祈祷など必要ない。中殿さまの前王妃への深い怨念こそが呪詛と同じ意味を持つ。今更、誰が手を下さずとも、あの方は自分から自滅の道を辿ってゆかれるであろうよ」
 娘の声にはやや愕きが混じっていた。
「そなた、巷の評判どおり、本当に未来が視えるのか?」
 ウォルメはそれには応えず、別のことを言った。
「私は止めたのだ。天意に逆っても、人が勝てるはずはないと」
「天意?」
 訳が判らないといった表情の娘に、ウォルメは続ける。
「お前がどこの大物に使われている犬かは知らぬが、一つ教えておいてやろう。廃位された前王妃は稀に見る強運の星の下に生まれている。中殿さまは、天が守護した前王妃に害をなそうとした。その報いは必ず下される」
「仁顕王后に天が守護している―」
 娘が呟くのに、ウォルメは深く頷いた。
「そう、天に守護されし者。そのような者が稀に存在する。強大な能力を持つ祈祷師でさえ、そのような者には手が出せぬ。害をなそうとすれば、逆に自分の方が返り討ちに遭う」
 娘は茫然としている。ウォルメは低く笑った。娘の先刻の科白をそのまま返してやる。
「信じるか信じないかは、お前次第だ」
 いや、と、娘はかぶりを振った。
「そうか、そのようなこともあるのか。不思議なこともあるものだな。私は普段から奇蹟だとか神仏の力など迷信は一切信じないが、そなたの申すことなら信じても良いと思う、ウォルメ」
 ウォルメ、と、娘が初めて名を呼んだのに、ウォルメは眼を見開いた。
「そなたの申すことを信じてはいる。―いるが、私も主君の手前、ただ手をこまねいて高みの見物というわけにもゆかぬのだ」
「では、私は何をすれば良い?」
 ウォルメが言えば、娘は黒い瞳をまたたかせた。
「協力してくれるのか」
「何を今更。抜き身の刃まで突きつけられて脅されたのだ。私はそなたに協力しなければ、消されるのだろう? 私とて生命は惜しい。何も中殿さまに我が生命と引き替えにしてまで忠節を通さねばならぬ義理もない」
 淡々と言うウォルメに、娘が表情を引き締めた。
「禧嬪の命を聞くふりをして、これからは私の言うことに従うのだ」
「具体的には何をすれば良い? 先ほど、お前は禧嬪を消すための手引きをしろと言っていたな」
「詳細は追って知らせる。それまでは、禧嬪が何か言ってきても、適当にごまかしておいてくれ」
「―判った」
 ウォルメが背を向けようとすると、娘の声が追いかけてきた。
「これからは、そなたの身の安全は私が保証してやろう。私に協力してくれる大切な相棒だ。何者かがそなたを害そうとしても、大丈夫だ」
 ウォルメは振り向きもせず、そのまま歩き去る。脅迫された者、した者でありながら、わずかな時間の間に、二人の間には奇妙な信頼関係が生まれていた。

  迷宮

 オクチョンが中宮殿に向かったのは、粛宗と深い関係になった女官がいる―と聞いた翌日だった。
 しかしながら、そのときでさえ、オクチョンはまだ半信半疑だったのだ。
―スンが私を裏切るなんて、あるはずがない。
 現実は、去年も崔尚宮を見初めて後宮に入れたという出来事があったばかりだ。そんな信頼はオクチョン自身が都合良く事実を歪めて解釈しているだけなのだ。それは自分でも分かり切っていたけれど、そうでも思わなければ、オクチョンは嫉妬に我を失ってしまいそうだったからだ。
 今回の件についても、恐らくは根も葉もない噂であろうし、百歩譲ってスンがいずれその女官を側に置きたいと願ったとしても、そのときはオクチョンに真っ先に打ち明け相談してくれるだろう。
 オクチョンは今や王妃であり、後宮では最高権力者なのだ。後宮の人事はたとえ王の意向であろうと、中殿の承諾がなければ行えない。ましてやスンのことだから、オクチョンの体面を考え、新しい女を召すなら誰よりも先に話してくれるはずだ。
 オクチョンは王妃になっても相変わらず、大勢の伴回りは連れていない。その日も申尚宮とミニョンの二人を従えていた。纏うのは王妃の正装である。高々と結い上げた髪には幾本もの玉の簪を惜しげもなく挿していたが、胸元に揺れるのは今もスンから贈られた紅釣舟のノリゲだけだ。
 中宮殿の手前まで歩いてきた時、オクチョンの視界に、見慣れた男の背中が映じた。彼女の良人である粛宗だ。思わず声をかけようとして、彼女は止めた。
 粛宗もまた、いつものようにホ内官を連れただけである。そこまでは良かった。
 中宮殿の正面扉には、留守居番らしい女官が立っていた。あろうことか、スンはその若い女官に親しげに声をかけたのだ。どこからともなく飛んできた蝶がたまたま女官の髪に止まった。
 女官のお仕着せを纏った娘は、長い髪を一つに編んで、くるっと纏めて髪飾りをつけている。それは一般の女官たちの典型的な髪型である。今、その纏めた髪を花と勘違いしたものか、白い小さな蝶がとどまり羽を休めていた。