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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 我ながら褒めてやりたいほど、落ち着いた声音が出せたのは上等だ。本当はやはり、生命の危機に瀕しているから、叫び足したいほど恐ろしい。だが、経験上、ウォルメはこういったことには慣れていた。幼い頃から、占い師をしていた母と共に過ごしたのだ。
 深夜、口封じにあばら屋に乗り込んできた刺客に襲われ、母娘共々殺されかけたこともある。幾度も死地をかいくぐってきたウォルメは、こういう場合、取り乱して恐怖心を露呈すればかえって危険だと知っている。
 フ、と、耳許で笑い声が聞こえたかと思うと、ピタリと刃が喉元に突きつけられた。
 冗談ではない、と、思う。自分はまだ二十歳にも満たないのに、こんなところで野垂れ死にはご免だ。
「流石は神も見放した病人さえ救うというほどの神力を持つ祈祷師だな」
 やはり、声は女のものだ。ウォルメは震えを抑えて、務めて冷静に言った。
「望みは何だ?」
 また鼻で嗤われた。相手はウォルメの喉元に押し当てた刃はそのままに、押し殺した声で応える。
「死に直面しても取り乱さぬとは、褒めてやりたいところだ。だが、いかにせん、恐怖は隠し切れていないようだぞ。震えている」
 やや面白そうに言われ、ウォルメは、かえって開き直ることができた。
「当たり前だ、私はまだ二十歳にもなっていない。こんなところで犬死にはしたくない」
 ふて腐れたように言うと、ウォルメに突きつけられた短刀があっさりと離れた。
「面白い女だな」
 ウォルメは急いで相手から離れ、距離を取った。が、自分をいきなり襲おうとした相手を見て、眼をまたたかせた。
 彼女の前に立つのは、たおやかな娘だ。年はウォルメと同じか、一つ二つ下だろう。ウォルメと変わらず、木綿の粗末なチマチョゴリを纏っているが、とにかく美しい。
 夏に太陽に向かって咲き誇る向日葵か、白百合といった風情だ。
「禧嬪の言うがままに動くしか能のない犬かと思っていたが」
 随分な言われ様だ。ウォルメは年の変わらぬ美しい娘をにらみつけた。
「お前にとやかく言われる憶えはない。見返りの良い仕事なら誰が依頼主でも引き受ける」
「ホウ」
 美しい娘が口の端を引き上げた。ウォルメは内心、割の合わないものだと皮肉げに独りごちる。ウォルメはお世辞にも美人ではない。多分、並よりも下といわれる部類の器量だとは自覚している。
 そんな自分が皮肉げな笑い方をしようものなら、醜い顔が余計に醜くなるばかりなのに、こんな綺麗な顔の娘ならば同じ表情をしても男どもは惚けたように見惚れるだろう。
 美人でもない自分が一人、この都で生きてゆくには評判の占い師であった母をも凌ぐといわれるこの能力だけなのだ。その力を誰のためにどう使おうが、この娘に横車を押される筋合いはない。
「私は、どうやら、そなたを買い被っていたようだな。そなたが禧嬪に与するのは、亡くなった母親のためだと思うていたのだが」
 その科白に、今度はウォルメが鼻を鳴らした。
「まさか。禧嬪―中殿さまにも申し上げた。占い師は職業柄、常に生命の危機とは隣り合わせだ。母が亡くなったのも、致し方ないこと。成功すれば、法外な見返りが入るのであうれば、失敗すれば見合うだけの犠牲を払わねばならぬのは当然だと思っている」
 娘が頷いた。
「確かに。そなたとは気が合うようだ。その度胸の良さも気に入った。私は自分自身が動かぬ癖に、高みから他人を顎でこき使うような人間は生憎と大嫌いでな。そなたがそのような人間でないと知って、何故か嬉しい」
「中殿さまのことを言っているのか。私は別に依頼主がどのような人間であっても、構いはしない。仕事に見合うだけの報酬をくれれば良い。それに、お前のような生命を狙おうとした者に好かれても、迷惑なだけだ」
 ウォルメがはっきりと言うと、娘は怒るでもなく笑った。
「はっきりと物を言うところも良い」 
 娘は頷き、一歩ウォルメに近づいた。その気迫に、ウォルメは一歩下がる。何なのだろう、この気迫というよりも殺気は。美しい娘は一見、たおやかで風が吹けば倒れそうなほど華奢なのに、並々ならぬ殺気を放っている。
「そなたが母親の敵討ちのために禧嬪に与しているわけではないのは判った。そこでだ、ウォルメ。私と取引せぬか? 本当は、脅して言うことを聞かせるつもりであったが、気が変わった。そなたが気に入ったゆえ、取引してやる」
「断る」
 ウォルメは断じ、背を向けた。追ってくるかと思いきや、娘は追ってこない。そのまま歩き出し、しばらく歩いたと思しき頃。
「口ほどにもない」
 やはり、あの殺気は自分の勘違いかと思いかけていた矢先、はるか高みから声が降ってきた。
「生憎だな」
 ウォルメは愕いて頭上を仰ぐ。と、とある両班の屋敷をぐるりと取り囲む塀から道に張り出した大樹の梢に、あの娘がいた。
―あの女、ただ者ではない。
 またたきほどの瞬時に、どのような神業を使って移動したのか。まるで一切の気配もなく消え、次の瞬間にはかなり離れた場所に―しかも、あのような樹の上に現れた。
 いや、あれば神の業というよりは邪悪な術といえるかもしれない。能力のあるウォルメ自身、呪術は得意とする分野だが、そのウォルメでさえ何か禍々しいものを感じる。
 もっとも、現実には、娘はよく訓練された刺客・間諜ゆえ、そこいらの屋敷の樹や屋根を順に飛び移って移動しただけで、何ら魔術を使ったわけではない。しかし、動転しているウォルメがそんなことに気づくはずもなかった。
 ウォルメの全身が真冬の寒風にさらされたときのようにザッと粟立つ。
 ウォルメは蒼白になり、慌てて駆け出した。が、全速力で走るウォルメの前に、いきなり娘がザッと樹の梢を揺らし舞い降りた。
 あたかも、しなやかに草原を駆け抜ける女豹のような身のこなしである。
「私から逃げようとしても、無駄だ。眼を付けた獲物は逃さぬし、仕留め損じたこともない」
 娘はまるで大道芸人の手妻のように、掌を開く。すると、いきなり煌めく短刀が出現した。彼女は、それを鞠のように自在に片手だけでくるくると操りながら、鼻歌を歌うように言った。
「良いか、もう一度だけ言ってやるから、よく聞け。私と取引した方がお前の身のためだぞ。私はそなたに?頼んで?いるのではない。取引しろと命じているのだ」
「私は仕事に見合うだけの報酬がなければ―」
 言いかけたウォルメの喉元に音もなく刃が突きつけられた。
「ひっ」
 無様な声を上げてしまい、唇を嚼むウォルメの喉の上、刃の切っ先がなめらかに動く。そこには見る間に細い傷ができ、血が溢れ出した。
「自分の生命ほど大きな見返りはないと思うが? 判らぬか、そなたはどうせ禧嬪に利用されるだけ利用されれば殺される。今、ここで私の命令を拒んだとて同じこと。なれば、取引に応じて、生命だけは長らえるが利口というものではないか?」
 娘は切っ先をいまだウォルメに突きつけたまま、淡々と言った。
「お前が約束を守ると誰が保証してくれる?」
 自棄のように言えば、娘が真顔で囁いた。
「私は理由もなく人は殺さぬ。それを信じるかどうかはウォルメ、そなた次第だ」
「判った。で、お前は何が望みだ。先ほどから聞いていれば、どうやら中殿さまに恨みを抱いているようだが」