炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
今度はウォルメは言葉にせず、首肯することで意思を示した。
オクチョンはしばらく眼を瞑っていた。針で突けば割れそうなほどの静けさの中、オクチョンの声が響いた。
「それでも、ウォルメ。私は、そなたに祈祷を頼みたい」
ウォルメの声が震えた。
「それは、ご安産の祈祷でしょうか、それとも」
「両方だ」
当然のように言えば、ミニョンが悲鳴のような声を上げた。
「中殿さま、いけません。失敗に終わるという祈祷を敢えて何故、なさるのですか! またしても御子さまを失うかもしれないのに」
オクチョンは微笑んだ。
「ウォルメ、どのような結果にあいなろうと、そなたを咎めたりはせぬと、ここで約束する。報償もそなたが望むだけ、取らせよう。ゆえに、今回も呪詛の祈祷を引き受けて欲しい」
ウォルメはまさかオクチョンがそれでも呪詛を頼むとは想像していなかったようだ。息を呑み、細い眼を零れんばかりに見開いた。
「こたびは、何がお望みですか?」
ようやっと言葉を紡ぎ出せば、オクチョンは迷わずさらりと断じた。
「死。あの女を殺すのだ」
「―」
最早、ウォルメもミニョンも言葉はなかった。ウォルメがやや掠れた声で言った。
「死を望む祈祷は、願いの中でも究極のものになります。つまり失敗したときの呪い返しもその分、大きく強いものになります。それでも、中殿さまはよろしいのですか?」
つまりは、願い事が大きいだけに、それが失敗した際、奪われるものも大きいということだ。
ウォルメが退出した後、ミニョンがオクチョンににじり寄った。
「オクチョン、止めて。今からでも考え直すのよ。あの占い師が言おうとしたのは、今度は、お腹の御子さまだけでは済まないかもしれないということなのよ? それが何を意味するか判る?」
「判るわ」
オクチョンは平然と言った。自分が相手の死を願うからには、その代償はやはり?死?でしかないだろう。その程度の理屈は、オクチョンにも判る。つまり、前王妃の死を望めば、今度は腹の子ばかりか、オクチョンも自分の生命を差し出す羽目になり得るということだ。
オクチョンはミニョンに言った。
「ミニョン、本当に欲しいものを得るためには、犠牲は覚悟しなければならないものよ。そして、それは自分の生命も同じだわ。死を覚悟するくらいでなければ、本当に欲しいものは手に入らない」
ミニョンの眼から涙がしたたり落ちた。
「オクチョン。これ以上、あなたは何を望むというの? あなたは王妃という地位にも就いたし、あなたの産んだ世子さまは今や国王殿下のただ一人の御子として、いずれはこの国の王になられる。あなたは、この世の栄華はすべて手に入れた。違う?」
オクチョンの眼にも熱い滴が浮かんだ。
「ミニョン、長い間、私の側にいてくれたあなたにも判って貰えないのね」
「私には判らない。あなたが何を望み、どこを見つめているのか、私は判らなくなってしまったの」
泣きながら言うミニョンに、オクチョンもすすり泣きで応えた。
「私は中殿も世子の母の座も、そんなものには何の魅力も感じないの」
「じゃあ、何故―」
涙ぐんで見つめてくるミニョンを、オクチョンは抱きしめた。
「私が欲しいのは、あの方の心だけ」
「―っ」
ミニョンが息を呑んだ。
「あなたがホ内官をいまだに恋い慕っているのと何ら変わらない。ただ、あなたはホ内官の心をずっと独り占めしているけれど、私はそうじゃない。知り合ったときから、あのひとには常に私だけではない他の誰かが側にいたの。最初は、それでも良いと思って自分を納得させたつもりだった。けれど、駄目だったのね。私には無理だった。大勢の女たちと大好きな男の愛を分け合うことはできなかったの。それが理由よ」
ミニョンが恐る恐るといったように言った。
「それで、王妃になったことで、オクチョンの望みは叶ったの?」
「いいえ」
オクチョンは泣き笑いの表情で言った。
「馬鹿よね、私って。王妃になれば、正室になれば、あの男のたった一人の女になれると信じていたわ。王妃にさえなれば、あの男は私だけを見つめてくれると信じていたのに、実際は違った。あの男はいまだに仁顕王妃を想っている。私には、それがよく判るの」
むしろ、彼に近づきたくて努力すればするほど、スンはオクチョンから遠ざかってゆくような気がする。―とは、流石に親友にも言えなかった。
ミニョンが瞳を潤ませて言った。
「それなら、オクチョン、もう、ここらで止めましょうよ。ウォルメは言っていたわ。あの女は神の守護があるそうよ。そんなのは認めたくもない話だけど、恐らく、あの者の言うのは正しいのでしょう。ウォルメの神力は母親のソルメを凌ぐものだという専らの評判だから。神仏に刃向かっても、人は勝てない。オクチョン、前王妃を害そうとするのは、結局、神に逆らうのと同じことだとウォルメは言った。私は、どうなっても良いし、あなたをそんなにも変えてしまった前王妃を憎いとさえ思う。たとえ、あの方に何の罪もないとしても、私が殺せるものなら代わりに殺してあげたい。でも、恐らく、誰がやろうとしても結果は同じよ。前王妃は死なないわ、きっと何らかの邪魔が入るでしょうね」
「それでも、私はやるわ」
オクチョンの言葉に、ミニョンはギョッとしたようだ。オクチョンが笑った。
「私が怖い? こんな鬼みたいな冷酷な女は流石に嫌いになったでしょう」
ミニョンは力なく笑った。
「馬鹿ね、オクチョン。何度も言わせないで。私はあなたに何度も助けて貰った恩をまだ返せていないわ。あなたが鬼になると決めたのなら、私も一緒に鬼になるし、地獄へ堕ちる覚悟をしたなら、一緒に地獄まで行く。その気持ちは変わらないのよ」
「ああ、ミニョン。あなたが側にいてくれるお陰で、私がどれだけ救われているか」
オクチョンが涙ぐむと、ミニョンはいつもの頼もしい側近の顔に戻った。
「憶えておいて。あなたが命じれば、私は燃え盛る炎の中にも飛び込むし、ミン氏の屋敷に乗り込んで前王妃を殺しても良い。だから、一人で悩んだり苦しまないで。あなたには、いつも私がついているんだから」
実際は、オクチョンがミニョンにそんな危ない橋を渡らせることはない。それが判るし、そういう女主人だからこそ、ミニョンはどこまでもオクチョンについてゆく覚悟ができるのだ。
この日、十年来の親友でもあり主従でもある二人は、改めて互いの絆の強さを確かめたのだった。
オクチョンとミニョンが真意を確かめ合っていた頃、ウォルメは別邸を出て人気のない道を歩き始めたところだった。
門前の道幅はそこそこあるものの、行き交う人影どころか、犬猫さえ見かけない。
彼女は地味な色の外套を顔が判らないように深く被った。そのときだった、ふいに背後から羽交い締めにされた。ウォルメは渾身の力で抗うものの、自分を拘束する腕は鋼(はがね)のようだ。しかしと、ウォルメは訝しく思った。
普通、屈強な男というのが口封じに寄越されるものだろうに、彼女を羽交い締めにしているのは間違いなく女のものだ。確かに、女性にしては訓練されているらしく、細身ではあるが、しっかりと筋肉がついているようだが。
「そなたは何者だ?」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ