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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「私もだ。あのときのそなたは美しくかった。勇敢で、自らの危険も顧みず、幼い者を助けようとした。炎のような少女だと思った」
 そこで、オクチョンはまた血を吐いた。
 スンが彼女を抱えたまま、吠えるように叫んだ。
「御医はまだか? 毒消しの薬はまだなのか、早く持って参れ」
「スン、聞いて」
「ああ、何でも聞く。だが、話しては余計に毒が回るかもしれない」 
「私はもう駄目。きっとまもなく死ぬわ。だから、話を聞いて」
「判った」
 スンの綺麗な眼から涙が流れている。でも、スン、もう、あなたの顔もぼやけてしまって見えない。大好きなあなたの顔が見えなくなってしまった。
「思えば、私たちは初めて出逢ったあの日から遠くまで来てしまった。もし、あなたが王でなければ、ただ一人の男と女として、夫婦として私たちは添い遂げられたかしら。そんなことをよく考えたわ」
「ああ」
 スンは涙を堪えて頷いた。
「さよならは言わないわね。また、いつかどこかで逢えるかもしれないから」
「次の世でそなたに逢えるまで、俺にずっと一人で孤独に耐えて生きろというのか? そなたのおらぬこの世に何の意味があるというんだ」
「スンがいつも笑顔でいられることを祈っているわ。私は、あなたの笑顔が大好きよ。初めて出逢ったあの瞬間から。だから、最後に一つだけ私のお願いを聞いて」
「ああ、何なりと聞こう」
「泣かないで、笑ってちょうだい」
 もう堪え切れなくなったのか、スンの嗚咽がひっきりなしに聞こえた。
 そこに漸く御医が到着した。
 スンが怒鳴った。
「早く、早く致せ」
 御医はひとめオクチョンを見るなり、その場に平伏した。
「畏れながら、もう手遅れでございます、殿下」
 スンの喉がヒュッと鳴った。
「スン、スン、どこにいるの」
 オクチョンが手を伸ばせば、温かな手がしっかりと握り返してくれる。何も見えなくなってしまったけれど、大好きなあなたの顔なら、眼が見えなくても思い出せる。
 私は、この手の温もりが大好きだった。
 さようなら、私の愛しいあなた。
「今も、これからもずっと愛しています」
 それが、オクチョンの最後の言葉となった。
 スンの涙に濡れた手にオクチョンの手が重なった。だが、直に大きな手に包み込まれた小さな手から力が失われた。
 王は血にまみれた女の頬を手巾で丁寧に拭った。溢れる涙が既に息絶えたオクチョンの頬を濡らす。粛宗はオクチョンの身体をかき抱き、静かに泣き続けた。
「これからだったのに、長い間、苦しませ哀しませた。これから世子に王位を譲り、二人、夫婦水入らずで暮らそうと言いにきたのだ。そなたが出逢った頃の美しいままの心でいられるように、他の女ではなくオクチョンだけを見つめてゆくと約束しようと思っていたのに」
 呟く粛宗の前方では、ミニョンが地面に伏して泣いていた。誰もが思いもかけなかったなりゆきに茫然とし、その場を支配するのは、救いようのない哀しみしかなかった。
時に康煕四十年(一七〇一)年十一月九日、四十二歳の誕生日を迎えた七日後、禧嬪張氏ことチャン・オクチョンは亡くなった。
 その日の夕刻、就善堂に咲き残った紅吊舟の最後の一輪が散った。オクチョンがこよなく愛した花は、その年の季節の終わりを迎えたのだ。
 地面に散った深紅の花びらが折しも残照を受けて、血の色のように炎のように見えた。
 
 その十数年後、年老いた粛宗は広大な宮殿の広場に佇み、夜空を見上げていた。紫紺の空にはふっくらとした月が掛かっている。
 老いた王の思考は、はるかな年月を遡り、過去へと還ってゆく。かつてオクチョンと共に見た垂れ桜、満月がつい昨日見たばかりのように鮮やかに今も思い出せる。
―そなたは言ったな。大切な人が死んでも、嘆く必要はない。その者たちは、生きている者の記憶の中で生きていると。
 はるか昔、最初の妻が第一王女を産んだ末、母子ともに亡くなった。あの時、哀しんでいた彼をオクチョンがそう言って慰めたのだ。
 粛宗は眼を閉じる。オクチョンの眩しい笑顔が浮かび、美しい面が花のつぼみがひらくようにほころんだ。
 森の奥に咲いた一輪の花のようであった、私の最愛の女、生涯の想い人チャン・オクチョンよ。
 彼の側をひらひらと優雅に羽根をそよがせ、蒼い蝶が飛んでゆく。王は思わず手を伸ばし触れようとしたものの、蝶はしばらく彼の回りを飛び交い、やがて、夜空に昇って空の色に溶け込むように消えた。
 老王の皺が刻み込まれた面にひとりで微笑が浮かんだ。 
 
  
 粛宗が一人で夜空を見上げていた数日後、郊外の寺に二人の孫を連れて老婦人が参詣していた。彼女は寺の本堂で僧侶に亡き人のための読経をあげて貰った後、孫たちを連れて寺をその懐に抱(いだ)くようにそびえ立つ小山に登った。
 小山というより小高い丘といった方が良いその頂には、草原がひろがっている。秋のこの季節、薄が丈高く生い茂り、オミナエシの花が可憐な花を所々に咲かせている。
 周囲からは秋の虫が低く啼く声が聞こえた。
 頂の片隅に少し大きめの石を数個積み上げた塚があった。長い風雪に苔むし風化してはいるものの、誰かの墓のようにも見える。
 老婦人は、その塚の前まで来ると、孫に持たせてきた風呂敷包みを開いた。持参した酒を塚の回りに撒き、林檎、薬菓を高坏に積み上げ恭しく供え、色鮮やかな菊の花束を傍らに添える。
「禧嬪さまのお好きな甘いお菓子を持ってきましたよ」
 老婦人は供え物をしながら、まるで生きている人に話しかけるような口調で言った。更に彼女は袖から後生大切に巾着を出し、その中に入れていたノリゲを手にした。
 紅吊舟を象った花があしらわれたノリゲである。花びらの部分には見事な紅玉(ルビー)がはめ込まれていた。老婦人は、そのノリゲをそっと塚の前に置いた。
「これはやはり、禧嬪さまがお持ち下さいね」
 亡き人から託された髪を分骨するつもりでこのに塚に納めた。残りの遺髪は小さな巾着に入れて、いつも肌身離さず持っている。
 この十歳の男の子と八歳の女の子は、彼女の孫に当たる。孫といっても、直接血の繋がりはない、養女として引き取って育てた義理の娘が嫁いで産んだ子どもである。
 彼女はもう何年も一人で一年に一度、決まった日ここに詣でていたが、二年前からは二人の曾孫を連れて来ていた。
「おばあさま、ここには、どんな人が眠っているの?」
 孫娘の無邪気な問いに、彼女は笑った。
「そうね、私にとって妹でもあり生涯の主君でもあった、とても大切な方」
「そうなの」
 納得している孫娘の傍らで、男の子が歓声を上げた。
「おばあさま、見て、ちょちょだ」
 どこから蝶が飛んできて花と間違えたものか、紅吊舟のノリゲに止まった。秋の穏やかな陽に紅玉が煌めく。
 透明な陽射しに照らし出された蝶は蒼く繊細な模様が刻まれた羽根を持ち、溜息が出るほど美しい。
 蝶はしばらくひらひらと塚の周囲を飛び回っていたが、やがて、天高く舞い上がり、涯(はて)のない蒼空に吸い込まれて見えなくなった。
―きっと、あの方の魂が天に還ってゆかれたに違いない。
 彼女がこの日に来ることを知っていて、あの方の魂が今日、この瞬間、ここに降りてきたのだ。