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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「愚か者っ、それでは遅い。王命の伝達は後回しで良い、すぐに就善堂に参る」
 粛宗は言い終わらない中に駆け出していた。
「誰か脚の速い者を先に就善堂に使わしてくれ。刑の執行は取りやめで、これは王命だと伝えて欲しい」
「はっ」
 内官は出てゆき、すぐに戻ってきた。
「脚に自信のある者を先に走らせました」
「よし」
 走りながら彼はついてくる内官に問うた。
「今、何刻だ?」
 若い内官は息を切らしている。
「そろそろ正午になろうとしています」
 処刑が執行される時間が近づいている!
 頼む、オクチョン。呑むな、呑まないでくれ。
 俺はこのままそなたを逝かせたら、きっと一生後悔する。何故、抱きしめて、そなた一人だけを愛すると言ってやらなかったと繰り返し自分を責めることになるだろう。
 頼む、間に合ってくれ。
 祈るように呟きながら、就善堂までの道を走った。
 これからは二人だけで生きてゆこう。王位はユンに譲って、二人別宮に移り住んで暮らそう。そなたが望んだように、もう他の女には眼を向けない。これからは、そなた一人を妻と思い、良人として男として誠実に向き合うと約束する。
「殿下、正午になりました」
 内官の声が必死で駆ける粛宗の耳に絶望的な予感をもたらした。

 一方、就善堂の前では、今しもオクチョンの処刑が行われようとしていた。白いチマチョゴリ姿のオクチョンが筵に端座する。
 後宮から派遣された尚宮が毒杯の載った丸盆を持ち、刑の執行を見届ける役人が数人、その場に立ち合った。
 尚宮が静かに進み出て、オクチョンに毒の入った小皿を渡そうとする。
 ミニョンは少し離れた場所に佇み、涙ぐんでいる。そのときだった。内官が小走りに駆け込んできた。皆が驚愕する前で、彼は更にその場をひっくり返すようなことを言った。
「禧嬪張氏の刑は取りやめる。これは国王殿下ご自身によって仰せ出された王命だ!」
 内官が荒い呼吸の下で、必死に声を振り絞った。
 張り詰めていた悲壮な空気が緩み、ミニョは安堵と嬉しさに涙をぬぐった。
 しかし。誰もが予期さえしないことが起こった。
 刑を逃れたはずの本人、オクチョンが両手で持った小皿を口許に運び、一挙に毒を煽ったのだ。
「―禧嬪さま?」
 ミニョンが悲鳴を上げたところに、粛宗が内官を従え飛び込んできた。
「オクチョン、呑むな。頼むから、呑んではならぬ」
 叫びながらオクチョンに駆け寄ったときは既に遅かった。
 粛宗が抱き起こした時、オクチョンは既に一滴残さず毒を飲んでいた。
「オクチョン、何故だ、どうして」
 粛宗が涙混じりの声を震わせた。

 その少し前、オクチョンは端座した姿勢は崩さず、尚宮から毒杯を受け取った。
 少し離れた前方では、ミニョンが悲痛な面持ちで見守っている。可哀想に、あれではミニョンの方がこれから毒を飲まされるような怯え様だ。
 そんな風に少しだけゆとりが持てるのは、我ながら不思議だった。流石に今朝、いよいよ刑の執行だと告げられたときは、平気な顔をしていたけれど、怖くて身体の震えを堪えるのに精一杯だったのだ。それでも、
―妖婦が震えていたぞ。
 と、誹られるのがいやで、意思の力を総動員して恐怖に耐え平然とふるまっていた。間違っても、死の恐怖に身を震わせていたなどと、無様な最期を見せて後々の語りぐさになりたくはない。従容とまではゆかずとも、凛として死を受け入れた様を見せたいと、ともすれば恐怖の淵に引きずられそうになる己を鼓舞していた。
 なのに、いざ毒を飲む前になると、不思議と心持ちは穏やかだ。
 ついに、その瞬間が来た。毒杯を運ぶ役目を負った尚宮が近寄ってくる。気の毒に、彼女も嫌な役目を押しつけられたクチだろう。誰でも、たとえ処刑される罪人の死だとしても、他人を殺す片棒は担ぎたくないのが人情だ。そんなことを考える余裕はまだあった。
 それでも、いざ毒杯を唇に運ぼうとしたときは、かすかに手が震えるのを止められなかった。そのときだった。
「禧嬪張氏の刑は取りやめる。これは国王殿下ご自身によって仰せ出された王命だ!」
 その場に満ちた緊迫感に場違いな大声がとどろき渡ったのだ。
 むろん、オクチョンも愕かないはずはなかった。真正面に見えるミニョンの顔には、あからさまな安堵が浮かんでいる。けれど、オクチョンはそのまま持ち上げた毒杯を唇に運び、ひと息に飲み干した。
 もう、良い。私が生きていれば、またスンを困らせる。明日からまた廷臣や学者たちが打ち揃い、一旦は取り下げた禧嬪張氏の処刑を嘆願するために大殿前に座り込むに違いない。また、一度公的に発した王命を取り下げるのは、王の威信にも関わる。できるなら、彼にそんなことをさせたくない。
 こういった場合、罪人の苦痛を長引かせないため、かなりの量の毒が入っていると聞く。つまり、すべて呑めば当然ながら、死は瞬時に訪れる。
 案の定、ひと息に飲み干してほどなく、カッと胃の腑から胸が焼け付くような感覚があり、オクチョンは大量の血を吐いた。
「オクチョン、呑むな、頼むから、呑んではならぬ」
 スンの声が聞こえる。オクチョンは誰かに自分が抱きかかえられるのを感じた。
 スン、スンが来てくれたの?
 心の中で呟いたつもりなのに、どうやら声に出してしまったようだ。
「ああ、俺なら、ここにいる」
 スンの声が、大好きな男の声が聞こえる。
「嬉しい」
 オクチョンは涙を滲ませた。
「スン、私は王妃の座が欲しかったんじゃない」
 うんうんと、スンが何度も頷く。
「王妃と呼ばれようと、所詮はただの女。女恋い慕う殿方には自分だけを見つめて欲しい」
「判っている。あのときも、そなたは同じことを言った」
 ?あのとき?というのが一ヶ月余り前の事件当夜であるとは知れた。
「オクチョン」
 名を呼ばれ、オクチョンは薄く笑んだ。
「嬉しい、初めて出逢った頃のように、私の名を呼んでくれるのね」
 呪符を持っていた夜に見つかった時、スンは私を?禧嬪?と冷たく呼んだ。あのときは心が凍るかと思うほど哀しかった。
 でも、今、彼は昔のようにオクチョンと呼んでくれたのだ。彼が私の名前を呼んだだけで、互いの名を愛おしい宝物のように大切に呼び合っていた日が生き生きと甦る。
 私はこの方のためにだけ精一杯花開き、女として母として生きた。この生命賭けて、ただ一人の男を愛したのだ。この生涯に悔いはない。
「もう一度、名前を呼んで貰える?」
「ああ、何度でも呼ぶ。だから、逝くな。俺を置いて、どこにもいくな」
 オクチョンが小さく笑えば、ややあって、スンが振り絞るように言った。
「おかしいか、そなたに毒薬を賜るように言ったのは俺なのに」
「いいえ、あなたは王だもの。重臣たちの声には逆らえない。そのことはよく理解しているわ」
 本当は、あなたが最後まで私を守ろうと、死罪だけは避けようとしてくれたのも知っている。だからこそ、私は死ななければならないと思った。私が生きている限り、あなたは重臣たちに責め立てられでしょう。
 オクチョンは笑みを浮かべたまま続ける。
「初めて、お逢いした日を憶えている?」
「ああ」
「こんなにも美しく頼もしい男がこの世にいるのかと思ったのよ」