炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
「年老いた両親を人質に取られてしまいました」
「そんなことだろうと思ったわ」
申尚宮は何ものかに脅迫されたのだ。年老いた二親の生命と引き替えに、オクチョンを裏切りることを強要された。恐らくはオクチョンが生きていれば目障りな者たちに。
オクチョンはフと笑った。そんな輩は、この宮殿に掃いて棄てるほどもいるだろう。南人と相対する西人派しかり、幸運にも第二王子の生母となった淑嬪しかりだ。
「私は殿下にも禧嬪さまのことを密告しました」
淑嬪が粛宗にオクチョンの罪状を密告したあの日、実は申尚宮もひそかに王に面会を求め、主人の罪を喋っていた。念には念を入れた淑嬪の狡猾な計略だった。
粛宗はファヨンを信頼していない。ゆえに、自分だけがオクチョンの罪を暴いても、信用しないのではという危惧があった。そのため、オクチョンの側に長年仕える申尚宮を脅迫し、自分側に与させたのである。ファヨンだけでなく申尚宮までもが同じ罪状を密告したならば、疑い深い粛宗とて心は動くはずだ。
ファヨンはそこまで計算していた。
「―そう」
オクチョンは頷いた。流石に申尚宮が粛宗に密告までしているとは考えなかった。
スンは敢えて申尚宮の裏切りをオクチョンには告げなかった。それはスンなりのオクチョンへの思いやりだろう。
―あの男が最後にくれた優しさに気づくことができた。
そう思えば、申尚宮の裏切りも許せるような気がした。
オクチョンが想いに耽っている間に、申尚宮はよろめくようにして出ていった。
翌朝、申尚宮は自室で自ら首を吊っている変わり果てた姿で見つかった。遺書のようなものは、一切なかった。
申尚宮の死後、オクチョンは居室で一人、物想いに耽った。ずっと軟禁状態のため、考え事をする時間だけは十分すぎるほどあるのは皮肉なものだった。
このような事態になってみれば、まさに大王大妃の遺言は的中したのだとしか思えない。オクチョンの進む道の先にある?栄光?と?衰退?というのは、まさにこのことだったのだ。
彼(か)の方は、オクチョンのゆく手を阻む者は西から現れると予言した。はきとしたことはいえないが、その西から現れる衰退をもたらす者とは淑嬪を指しているのではないか。
淑嬪は西人の筆頭ク・ソッキを後見に持ち、元々はムスリだった。ムスリたちの住まう殿舎は、まさに?西?にある。もっとも、それだけで淑嬪が大王大妃の語っていた破滅をもたらす使者と断定はできない。
もしかしたら、申尚宮を脅迫してオクチョンを裏切らせたのは、淑嬪かもしれない。あの狡猾で油断のならぬ女であれば、その程度のことは平然とやりそうな気がする。
あれは、申尚宮が自ら生命を絶つ前夜のことだ。泣きながら、己れの罪を告白したあの時、オクチョンは敢えて訊かなかった。
申尚宮を脅迫して味方につけたのは誰なのか? 訊ねてみたところで、申尚宮は応えないだろうし、彼女を余計に追い詰めるだけだと判っていたからだ。
ただ、抵抗のできない申尚宮の弱みにつけ込み、卑劣に脅迫した者は許せなかった。裏切った申尚宮への怒りより、むしろ、彼女をそこまで追い詰めた者を憎いと思ったのである。
とはいえ、今となっては、すべては推測の域を出ない話だ。
数日後、ついに王命が下った。
―禧嬪張氏は中殿呪詛という大罪を犯した。よって、ここに毒杯を与えるものとする。
王命を携えた官吏が就善堂を訪れた時、オクチョンは意外なほど落ち着いて対処できた。筵を敷いた上に座り、読み上げられる王命を聞く間も、じいっと視線は官吏の膝の辺りに据えて微動だにしなかった。
処刑は異例なほどの速さで行われた。同日の正午、オクチョンの刑の執行が行われることが当人にも告げられた。
同じ時刻、粛宗は大殿の執務室を行きつ戻りつしていた。
本当に、このままで良いのかと既に何度も自問自答した問いを繰り返す。
眼を閉じれば、彼女と初めて出逢ったときの日をありありと思い出す。使用人の幼い少女を助ける一心で、自分の身の危険をも顧みず燃え盛る炎に飛び込んでゆこうとしていたオクチョン。
あの日のオクチョンは、本当にもういないのか? 自分の野心を遂げるためには他人を呪い殺すような恐ろしい女になり果ててしまったのか?
事実だけを見れば、確かにそのとおりだ。現に、オクチョンは何の罪もない王妃を呪った。けれど、呪符を中宮殿の床下に置こうとしていた夜、彼女は何と言ったか?
―あなたの愛を失ったときから、私の心は死んだ。今、あなたの情けに縋って犯した罪を免れても、私の苦しみはこれからずっと続くわ。あなたの心が私のものにならない限り、私は何度でも中殿さまを呪い続けるでしょう。
俺自身が変われば、オクチョンもまた変わることができるのだろうか。俺が彼女だけを見つめたなら、彼女はもう誰も恨んだり妬む必要はないのか?
また粛宗の脳裡に、あの夜のオクチョンの言葉が響き渡った。
―見損なわないで。私はそこまで卑怯者ではないわ。今回の謀は他の誰でもない、私がやったの。あなたの言ったのとは逆で、お付きの者たちが私の企みに無理に従わせられたのよ。
忙しなく歩き回っていたスンはピタリと止まった。
そう、オクチョンは、あの瞬間、どんなに追い詰められても、ミニョンや申尚宮を身を挺して庇おうとした。粛宗もミニョンまでもが何とかしてオクチョンの罪を問わずに済むように事を運ぼうとしていたにも拘わらず、自分の罪を他人になすりつけて自分だけ罪を免れようとはしなかったのだ。
まさしく、彼がよく知る十七歳の、初めて出逢ったときのオクチョンそのままではないか。そう、彼女は何ひとつ変わってはいない。二十五年前、炎に飛び込もうとしていた正義感の強い、勇気ある少女は確かにまだ、彼女の中で生きている。
愛することはほぼ信じることだ。
もう一度、あの日、彼が出逢った日のオクチョンがまだ彼女の中で生きていることを信じてみたい。
今までの自分はどこか間違っていた。
数人の女たちを平等に扱ってるつもりでも、心ではいつもオクチョンだけを求めて止まなかった。自ら召し上げたセリョンでさえ、オクチョンとの意のままにならない関係でできた心の透き間を埋め、淋しさを紛らわせるためのものではなかったか。そんな風に言えば、今度はセリョンを傷つけてしまうかもしれないけれど。
だが、自分の心をこれ以上、ごまかしたくなかった。もう、心のままに生きよう。男として心がただ一人の女のみを求めるなら、その心の求めるがままに生き、彼女一人を愛してゆけば良いのだ。
今まで複数の女たちを側に置いておきながら、今更、身勝手な科白だとは十分承知していた。もっと早くに大切なことに気づけば良かった。こんな不器用な愛し方しかできない男だけれど、オクチョンはまだ自分を受け入れてくれるだろうか。
粛宗は執務室を飛び出した。愕いた内官が飛んで駆け寄ってくる。
「殿下、いかがなさいましたか」
「取り下げだ。王命は取り下げだ。禧嬪に毒杯を賜るのは取りやめる」
粛宗は殆ど怒鳴るように叫んだ。ホ内官の後任の若い内官が言った。
「それでは都承旨を呼んで参ります」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ