炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
「もう、そなたを救うすべはないのか。オクチョン。教えてくれ、そなたを守るために俺は、どうしたら良い?」
王の端正な面には、幾筋もの涙の跡があった。
伝えきれなかった気持ち
月日は淡々と流れた。この頃、オクチョンは時間の感覚がなくなることがよくあった。
ずっと就善堂に閉じ込められているのだから、無理もない。一日一日が十年分のように長く感じる日もあれば、目覚めて眠るまでがまたたきするほどのひと刹那のように儚く思える日もある。
その月の初め、オクチョンは四十二歳を迎えた。自分でも正直、生きてこの日を迎えるとは考えておらず、歓んで良いのかどうか判らない。
就善堂での謹慎生活は既にひと月以上に及んでいる。
誕生日を迎えたその日の朝、ミニョンがオクチョンの好物の薬菓をたくさんこしらえた。
「さあ、好きなだけ召し上がれ」
ミニョンは綺麗な大皿に薬菓を山のように盛り上げ、小卓に乗せてきた。
「今年はこのように簡素なものになってしまいましたが、来年こそはまた、たくさんの人を集めて盛大にお祝いしましょう」
オクチョンもミニョンも、恐らくそんな日が来ることは永遠にないと知りながら、口には出さない。こうしている今も、大殿前では廷臣たちだけでなく学者たちもが座り込んで、オクチョンの処刑を粛宗に訴え続けている。
可哀想なスン。
オクチョンは大好きな男のことをひたすら考える。優しい男だから、きっと非情になりきれず、オクチョンの処分を決めかねているのだ。廷臣たちの訴えとオクチョンへの情の板挟みになって、今、あの男はどれほど苦しんでいるのか。
そして、スンを苦しめているのは自分なのだ。
オクチョンは物想いを払うかのように首を振り、笑った。
「そうね。来年は盛大にやりましょう」
何故か滲んできた涙が抑えられず、ひと粒、頬をころがり落ちた。めざとく見つけたミニョンが元気づけるように言う。
「殿下は死罪には反対なさっているそうです。気を強くお持ち下さい、禧嬪さま」
「もう、良いのよ」
オクチョンは薬菓を一つつまんだ。
「私は今でも殿下をお慕いしている。大切な方を苦しめたくはないの」
オクチョンは薬菓を味わうかのように、ひと口ひと口味わって食べた。
「美味しい」
感に堪えたように言い、ミニョンを見た。自ら纏うチョゴリの紐から紅吊舟のノリゲを外す。
「これを」
それは、オクチョンとスンがまだ知り合ったばかりの日、スンが町の露店で買い求め贈ってくれたものだ。紅吊舟が数個群れ咲くデザイン(意匠)で、一つ一つの花びらに紅玉がはめ込まれている。
ずっと大切にしてきた。このノリゲは二人が出逢ってから過ごしてきた日々の想い出をすべて知っている。スンにどれだけ高価なノリゲを贈られても、オクチョンはこのノリゲしか身につけたことはない。
「とても大切にしているものだから、あなたに持っていて欲しいの」
更に、懐から小刀を取り出し、愕きを隠せないミニョンの前で自らの髪をひと房切り取った。
「良かったら、これも一緒に」
「オクチョン」
ミニョンが嫌々をする子どものようにかぶりを振った。
「これでは、まるで別離のようじゃない」
泣き出したミニョンの側に行き、オクチョンはそっと抱きしめた。
「あなたとは長い年月を過ごしたわ。関係としては主従ではあったけれど、実のところ、私はあなたをいつも姉だと思っていた。良いこと、これから何が起こっても、あなたは黙っていて。あなたはあの夜、私と一緒にはいなかったことになっている。殿下も恐らくミニョンの罪を問うことはないでしょう。だから、私にもしものことがあったときは、あなたはすみやかに後宮を出てホ内官の許に帰るのよ」
「いやよ。オクチョン一人を残して、私だけ生き残るなんて。あなたにもしものことがあれば、私も一緒に」
「馬鹿」
オクチョンが突如として怒鳴り、ミニョンが眼を見開いた。
「あなたまで死んだら、本当の私を知っている人は誰もいなくなるでしょ。確かに私は最後には悪に手を染めてしまった。でも、けして王妃の位や栄耀栄華がしたかったわけではないことをあなただけは知っている。だから、あなたには無事でいて欲しい。生きて、私が辿った生涯―チャン・オクチョンの心の真実をいつまでも憶えておいて欲しいの」
「オクチョン」
ミニョンの眼から、とめどない涙が溢れる。
「辛い役を押しつけてしまうけれど、あなたしか頼める人がいないの。引き受けて貰える?」
オクチョンもまた涙ながらに頼むと、ミニョンは小さく頷いた。
「判ったわ。いつか、あなたのことを思いだしても涙が出なくなった頃、あなたの生涯を記録に残すわ。本当のあなたが、チャン・オクチョンがどんな女(ひと)だったのか、本当は何を心から望んでいたのかを文字にする」
オクチョンは微笑み、ミニョンの手を両手で包み込み、押し頂いた。
「長い間、ありがとう」
ミニョンと入れ替わるように申尚宮が入室してきた。オクチョンが呼んで欲しいとミニョンに頼んだのである。
入ってくるなり、申尚宮はいきなり上座のオクチョンに手をついた。
「禧嬪(マーマ)さま、お許し下さい。どうか罪深い私を殺して下さいませ」
ひれ伏し、身を揉んで泣く。そんな申尚宮をオクチョンは静かなまなざしで見つめた。
「知っていたわ」
何気ないひと言に、申尚宮の顔に当惑の表情がありありと浮かぶ。
「いつから気づかれていたのですか?」
語尾が震えた。
「かなり前でしょうね」
対してオクチョンは裏切られたというのに、淡々と他人事のようだ。申尚宮が裏切っているのではないか。薄々は察して疑いを持っていた。はっきり確信したのは、オクチョンの運命を決定づけたあの夜、呪符を渡すときだ。
いよいよという瞬間まで気づかず、直前まで気づかないというのは迂闊なものだと我ながら呆れる。
―お人好しのチャン・オクチョン。
スンの声が耳奥でありありと甦る。お人好しだとよくからかわれ、オクチョンも?スンの泣き虫?と負けずにやり返した。
こんな状況になっても、私は、まだあなたをこんなにも好きなのね。
呆れると共に、あの男への想いの深さだけはどの女たちにも負けないと誇りを持てた。
あれは事件前日の夜だ。ウォルメから預かったという呪符をオクチョンに渡す時、申尚宮の声も手も震えていた。今までウォルメと繋ぎを取っていたのはほぼ申尚宮の役目だった。あの瞬間、オクチョンは疑念を深めたのだ。
でも、眼を瞑ろうとした。長らく母とも慕い、信頼してきた申尚宮に裏切られたなどと信じたくなかった。その結果がこの有り様だ。やはり、自分は無類のお人好し、もしくは愚かなのだろう。
申尚宮が唇をわななかせた。
「何故、おっしゃらなかったのですか?」
オクチョンは、あどけない少女のように小首を傾げて見せた。
「さあ、自分でもどうしてか判らないけど、最後まであなたを信じたかったからでしょうね」
「私を責めないのですか?」
これには、オクチョンは、きっぱりと頷いた。
「ええ、あなたは、あるときまで本当に私によく仕えてくれたもの。それに、何か事情があったのでしょう」
申尚宮の眼に涙が盛り上がった。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ