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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 大臣ばかりか廷臣一同、更には集賢殿(チッピョンジョン)の学者たちまでもから上奏文が相次いだ。それらはすべて
―畏れ多くも中殿さまを呪詛し、死に追いやった大罪人禧嬪張氏に死罪を望む。
 というものであった。
 オクチョンの死罪を望む声は日ごとに高まってゆき、最早、粛宗に止めようがなかった。
 まもなく禧嬪張氏に処刑の命が下されるのではないか。宮殿中の至る所でそんな噂が真しやかに囁かれていた。
 そんな中で、十三歳の世子が大殿前で席藁罪待(ソツコデジェ)を始めた。席藁罪待は寝食も断って、王に直訴するものだ。罪人が罪に対する処罰を待つためにも行うが、嘆願の場合はいわば示威行動ともいえる。大抵の者は願いが聞き届けられることなく、かえって国王に背いたとして相応の処罰を受けるのがならいである。
 オクチョンは報せを受け、急いで大殿に向かった。果たして、居室を出ようとし、彼女を義禁府から派遣された武官は止めた。
「畏れながら、王命により禧嬪さまは就善堂から一歩たりとも出ることはできません」
 押し問答を続けた挙げ句、オクチョンは怒鳴った。
「そこを退け。そなたにも家族がおろう、息子や娘がいるはずだ。世子は私にとって、ただ一人の息子なのだ。その我が子の無謀を止めるが母の役目」
 叫びつつも、オクチョンの声は涙混じりだった。二人の武官の中、年嵩の男が相棒に首を振った。
「しかし」
 何か言おうとする年下の武官を制し、年長の男が言った。
「どうぞ、お行き下さい、禧嬪さま」
「済まない、この恩は忘れぬ」
 オクチョンは礼を言い、チマの裾を端折り、駆け出した。
 やはり、ユンは大殿前の広場にいた。筵を敷いて、白一色の姿で端座している。
「父上(アバママ)、どうか母上(オバママ)をお助け下さい」
 何度も叫びすぎて、ユンの声は掠れていた。
 身体の弱い子が丸一日、何も食べず呑まずで―。オクチョンは胸をつかれた。涙の固まりがこみ上げ、飲み下そうとしても飲み下せず、溢れた涙が大粒の滴となり頬を濡らした。
 オクチョンが我が子に駆け寄ろうとしたその時。大殿の正面扉が開き、国王その人が出御した。
 スンの視界にユンが入っていないはずはないのに、彼はそのまま広場へと続く階を降り、世子の方は見もしないで通り過ぎようとする。
 一瞬、粛宗の王衣の裾をユンが?んだ。
「父上」
 粛宗がゆるゆると視線を動かし、ユンを見下ろした。
「父上、どうか母上をお助け下さい」
 その言葉にも、粛宗は眉一つ動かさない。そのまま振り払うようにして行き過ぎようとするのに、ユンが声の限りに叫んだ。
「私が子どもの頃から、母上は父上をご覧になる時、いつも哀しそうな、淋しいお顔をしていました。何故なのですが、どうしてなのですか」
 一瞬、王の端正な面に痛ましげな表情が浮かんだかに見えた。しかし、それはすぐに水面に呑み込まれた小石のように、静謐な表情の下に隠れた。
「大人には大人の事情がある。そなたには拘わりのない、知らずとも良いことだ」
 ユンはそれでも食い下がる。
「そうは思いません。私は確かに子どもです。母上が哀しまれているのに、幼すぎて私は無力で何もして差し上げられなかった。父上は母上を愛しておいでだからこそ、妃として迎えられたのではないのですか? 愛した女性に自ら死ねと仰せになるおつもりなのですか!」
 粛宗が抑揚のない口調で言った。まるで感情をどこかに置き忘れてきたかのようだ。あんな生気のないスンは初めて見ると、オクチョンは思った。
「そなたの母は取り返しのつかない罪を犯した」
 粛宗にうり二つのユンの整った顔がくしゃりと歪んだ。
「母上はもう十分苦しまれました。これ以上、母上を苦しめないで」
 ユンは叫ぶなり、すすり泣いた。
 オクチョンは見ていられず駆け出した。それは意識してのことではなく、衝動的なものだった。
「お黙りなさい、世子」
 オクチョンは粛宗と対峙する息子の前に立ちふさがり、息子を庇うように、まだ線の細いその背中に両腕を回し抱きしめた。
「いいえ、黙りません! 父上が母上を許して下さるまで、私はここに座り続けます」
 ユンがいつになく頑固に言い張る。いつもは素直で、オクチョンに逆らった試しもない子が今、全身全霊で母を守ろうと父に立ち向かっている。
―あの幼かった子がいつのまにか立派になったのだ。
 もう、大丈夫だと思った。たとえオクチョンがいなくても、この子なら、ちゃんと大地に脚をつけて、いずれスンから受け継ぐ王の道を歩んでいってくれるだろう。
「止めよというのが判らぬか!」
 オクチョンは心を鬼にしてユンの頬を打った。ピシリと乾いた音がしじまに際立って響く。刹那、粛宗とオクチョンの視線が宙で絡み合った。しかし、王はすぐにオクチョンから視線を逸らした。
「そなたにもいつか判るときが来る。王というものは時に非情にもならねばならぬのだ」
 まるで大根役者が下手な芝居の科白を棒読みするかのようだ。
「判りません、私には。私なら、こんな風に愛する女を泣かせない。ただ一人の妻を、王妃だけを愛し抜きます」
 泣きながら訴える息子を見つめる粛宗の面に、また何らかの感情が閃いた。しかし、オクチョンにはそれが何なのか判らなかった。
「やってみるが良い。いつの世も、どれほど時代が移り変わろうとも、王は己れの望むままには生きられぬ。そなたも父の申す言葉の意味が判る日が来るだろう」
 粛宗は静かに去っていった。その後を数人の内官や女官が追う。だが、いつも王の側に影のように寄り添っていたホ内官は見あたらなかった。ミニョンによれば、ホ内官は自ら職を辞したのだという。
 ミニョンは、あれからもずっとオクチョンの側にいた。もっとも、今は就善堂の女官たちは皆、自由を制限されている。ミニョンが自宅に戻りたくても戻れない状態ではあるのだ。
―王は己れの望むままには生きられぬ。
 粛宗の言葉は、彼がいなくなっても、その場に漂っているようだった。泣き伏す世子をオクチョンは力一杯抱きしめた。
「もう良いのです。父上は王です。王は一度決められたことを覆しません。ゆえに、母は父上のご命令に従うつもりです」  
 優しく言い聞かせるように言えば、十三歳の世子はオクチョンに身を預けて号泣した。
 オクチョンはユンが泣き止むまで、ずっとその場で背中をトントンと叩いていた。ユンがまだ幼い頃、泣き止まないときによくオクチョンがしてやったのと同じだ。
 次第にユンは泣き止み、恥ずかしげに言った。
「幼い童みたいで、恥ずかしいです」
「いいえ。母は嬉しかったですよ。世子が母を生命を賭けて救おうとしてくれた、その心に涙が出るほど嬉しかった」
 オクチョンは涙を堪えて微笑んだ。それから二人、手を繋いで就善堂まで戻った。
 二人で一緒にいられる時間は恐らく、短い。もしかしたら、これが最後かもしれない。オクチョンもユンも口にこそ出さなかったが、わざといつもより時間をかけて就善堂への道を歩いた。
 就善堂の前には、紅吊舟が今、一面に咲き誇っている。雪のような純白もあれば、燃えるような紅、淡いピンクの花と色とりどりの花が一様に咲き誇っている景観は圧巻とさえいえた。