炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
王の瞳にわずかな熱を感じ取ったのか、王妃はますます頬を染めた。今は、そんな妻を素直に可愛いと思える。粛宗は玉爾を捺した書類数枚を揃えて机の脇に置いた。そのまま室を横切り、妻と向かい合う。
「そなたがここに来るからには、よほどの用件があるのだろう」
「はい」
王妃は頷き、粛宗を真正面から見つめた。王妃がこんな風にあからさまに自分を見つめてくるのも珍しい。粛宗は妻の言葉を辛抱強く待った。
「禧嬪が今朝、義禁府に身柄を拘束されたとか聞きました」
同じ後宮内に住まうのだから、王妃が知っていたとて不思議はない。しかも、オクチョンは王妃その人呪詛の罪で捕まったのだ。
王妃は一旦うつむき、また顔を上げた。
「この件について、殿下は、どのようにお考えなのでしょうか」
無言の粛宗に対し、王妃は矢継ぎ早に言った。
「いえ、言い換えます。殿下は、どのような処断をなさるおつもりなのか、そのお考えを聞きとうございます」
二人ともに重たい沈黙に押しつぶされそうだった。気まずい時間の末、粛宗は漸く口を開いた。
「仮にも国母たるそなたを呪ったのだ。その罪は大きい。反逆罪にも匹敵する」
「反逆罪というのは、少し大げさすぎるのではないでしょうか。たかだか女一人が考えたことにすぎず、政治的な意図はありません。また、禧嬪が私に直接毒をはませたわけでも刃を向けたわけでもないのです。しかも、今回の禧嬪の行いは個人的な感情のもつれで引き起こしたことです」
「個人的な感情のもつれ―」
粛宗が呟くのに、王妃は頷いた。
「禧嬪にそのようなことをさせた私の不徳のせいでもあるのです。ゆえに、今回だけは寛大なご処置を望みます、殿下」
「―」
粛宗は言葉がなかった。自分自身が呪詛されたというのに、王妃にはまるで危機感がない。お人好しというには限度がある。
粛宗はこんなときなのに、まったく別のことを考えた。
―お人好しのチャン・オクチョン。
かつて彼はよく想い人をからかったものだ。底抜けのお人好しで涙もろくて、優しい。正義感が強すぎて、自分の危険も顧みず他人を助けようと火の中に飛び込んでゆく。彼がよく知るチャン・オクチョンは、そんな少女だった。
何故、あのお人好しな娘が他人を呪うほど恐ろしい女に変貌したのか?
―俺のせいだ。
粛宗は思わずにはいられなかった。
―あなたの愛を失ったときから、私の心は死んだ。今、あなたの情けに縋って犯した罪を免れても、私の苦しみはこれからずっと続くわ。あなたの心が私のものにならない限り、私は何度でも中殿さまを呪い続けるでしょう。
何故、あの時―オクチョンに求愛したときに気づかなかったのか。彼女の求める愛は、オクチョン一人に向けられる愛であり、彼女が求める男は彼女一人を愛し続ける男であると。
彼がどれだけ?そなただけ?と囁いても、オクチョンは満足しない。彼には求愛したそのときから、仁敬王后がいたし、更にその後は現王妃がいた。更に貴人の地位を与えているセリョンは粛宗自ら見初め、召し上げた女だ。言い訳はできない。また、自らの意思で迎えたのではないにせよ、後宮には第二王子をあげた淑嬪もいる。
求愛した時、オクチョンは、はっきりと言った。
―大勢の女と一人の男の愛を分け合うのはいや。
だから、最初は彼の求愛を拒んだのだ。
それでも、彼はオクチョンが欲しくて、手に入れた。
彼女のことを心から思うなら、あの時、この恋は諦めるべきだったのだろう。
オクチョンを変えたのは、彼自身だった。粛宗は苦渋に耐えるような表情で言った。
「そなたは、どのような処罰を望む?」
王の問いに、王妃は頷いた。
「寛大なお計らいを―謹慎などはいかがでしょう」
「それでは、あまりに寛大すぎる」
「では、後宮を出て、どこかでひっそりと過ごさせては」
「それでも甘い。俗世を棄てるほどの覚悟は必要ではないのか、中殿」
王妃が言葉を失った。粛宗は静かな声音で言った。
「かつて、そなたが禧嬪と世子を呪詛した疑惑を被った時、そなたは廃位され、追放されたのだ。禧嬪は現実にそなたを呪詛した。それは明白だ。なのに、禧嬪に対しては随分と軽い処罰を望むのだな」
王妃が瞳を潤ませた。
「殿下、お心にもないことを仰せになるのは止めて下さい。他ならぬ誰でもない殿下こそが最も禧嬪を救いたいと思し召しておいでのはず」
「だが、私は人である前に王だ。この国の規律を守るためにも、禧嬪だけを特別扱いはできない」
「それでは、出家の上、追放でも構いません。どうか、それ以上の罰は与えないで下さい。禧嬪に重い処罰が下されれば、世子が哀しみます。身体の弱いあの子が衝撃を受け、寝込んだりしたらと思うと心配でなりません」
粛宗は黙り込んだ。王妃の言うとおりだった。ユン今年、十三歳になった。背丈も伸び、少年らしくなったし、オクチョンの美しさを受け継いだ綺麗な子だ。しかも、幼時と変わらず、聡明だ。武術は苦手なようだが、それでも息子なりに懸命に鍛錬しているのは知っている。
オクチョンを罰したら、あの可愛い息子をどれだけ哀しませるかと考えただけで、粛宗も心が引き絞られるように痛む。
オクチョンとの間の第二子、第三子ともにに育たず、ユン一人が辛うじて成長した。だからなのか、ユンも身体が丈夫ではない。赤児のときの方がむしろ健康であった。
王妃はいまだにユンを我が子のように可愛がっている。ユンも足繁く中宮殿を訪ね、王妃への挨拶を欠かさなかった。幼い頃はオクチョンがユンを中宮殿に近づけなかったが、成長した今では、ユンは自分の意思で行動しているようだ。
「私も世子が受ける心の痛手を考えると、案じられる。さりながら、中殿。やはり、王妃呪詛という大罪を犯した禧嬪に何も処罰を与えないというわけにはゆかぬ。ゆえに、そなたの願うように廃位の上、王宮追放、更に世捨て人となり自らの罪を悔いながら寺で過ごすようにさせようと思うが」
王妃も頷いた。
「私もそれでよろしいのではないかと存じます」
「そなたは、本当にそれで良いのか?」
「はい」
王妃は、きっぱりと言い切った。
粛宗が力なく笑った。
「そなたが世子の心まで思いやってくれるとは考えていなかった。心から礼を言う」
「私は世子の母です。母が我が子のことを案ずるのは当然ではありませんか」
花のように笑う王妃に、粛宗は改めて頭が下がる想いであった。
どうして、このように心の清(すが)しい女を一刻たりとも疑っていたのか。オクチョンは今回、王妃を呪詛しただけではない。かつては王妃に無実の罪を着せ、王妃を追い落としたのだ。もしかしたら、聡い王妃は公にはされておらぬオクチョンの罪にとうに気づいている可能性もある。それでも、粛宗に何を言うでもなく、むしろ今回も自分を呪詛したオクチョンを庇おうとしているのだ。
死の間際、母大妃が言ったように、本当に自分の眼が曇っていたとしか思えない。
それでも、彼のオクチョンへの想いもまた本物だった。誰が何と言おうと、彼の心に今も住み続けているのはオクチョン一人なのだ。彼にとって、オクチョンはずっと特別な存在であり続けた。けれど、当のオクチョンはそれだけでは嫌だと言った。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ