炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
「見損なわないで。私はそこまで卑怯者ではないわ。今回の謀は他の誰でもない、私がやったの。あなたの言ったのとは逆で、お付きの者たちが私の企みに無理に従わせられたのよ」
オクチョンが言い終わらない中に、ミニョンが泣きながら王の前に跪いた。
「すべては殿下の仰せのとおりです。禧嬪さまは今回の企みには何の関わりもありません、すべては私と申尚宮が企み、乗り気でない禧嬪さまを巻き込んだのです」
「ミニョン!」
オクチョンが叫び、地面に膝を突いた。ミニョンの顔をのぞき込んだ。
「もう、良いのよ。あなたが私を庇おうしてくれているのは嬉しい。でも、あなたが罪を被る必要はない」
そこで粛宗が優しく言った。
「ミニョン、そなたはこの場を離れろ」
「そんな! 私は禧嬪さまを置き去りにして一人のうのうと逃げることはできません」
ミニョンは烈しく首を振った。
粛宗は静かな声音で続けた。
「今宵、何故、私がホ内官をこの場に伴わなかったか、判るか?」
声もないミニョンに、粛宗は言った。
「そなたのオクチョンへの忠義心はありがたい。さりながら、今はホ内官と二人の子どもたちのことを考えよ」
ホ内官とミニョンは男の子と女の子を引き取って育てている。上の息子は既に十八歳となり、一人前の内官として出仕しており、下の娘も由緒ある両班家との縁組みが調ったばかりである。
「禧嬪さま」
ミニョンが涙に濡れた瞳でオクチョンを見た。オクチョンは微笑んで頷く。
「行って。私のことは心配しないで」
ミニョンはオクチョンと粛宗に深々と頭を下げ、その場から走り去った。
ミニョンがいなくなった後、粛宗はなおも言った。
「そなたは仕える者の企みに無理に協力させられた。それで良いな? 安堵しよ、ミニョンや申尚宮の名を出さず、そなたを巻き込んだ者は公表せず始末したことにする」
「―いいえ、殿下。すべては私がやりました。中殿さまを呪詛したというのも事実です」
オクチョンはあくまでも言い張った。
「何故だ、オクチョン。何故、そうまで頑なになる?」
オクチョンは笑った。
「あなたの愛を失ったときから、私の心は死んだ。今、あなたの情けに縋って犯した罪を免れても、私の苦しみはこれからずっと続くわ。あなたの心が私のものにならない限り、私は何度でも中殿さまを呪い続けるでしょう」
「俺の心は、いつだってオクチョンのものだ」
「いいえ」
オクチョンはかすかに首を振る。
「それは違う。私のいう心とは、その他大勢の人に分け与えられるのと同じ量の、ほんの少しの心ではないの。あなたの心丸ごとでなければ駄目」
「だから、中殿を呪詛したのか? 何も罪もない中殿を」
「そうね。中殿さまには申し訳ないと思っている。でも、あの方があなたの心に住み着いている限り、私はあの方の存在が許せない」
粛宗が何かの痛みに耐えるような表情で言った。
「それでも、俺はそなたを最後まで信じていた。その信頼をそなたは裏切ったのだな、禧嬪」
その最後の科白は、オクチョンにとって何よりも堪えた。スンが二人きりのときでも、初めて?禧嬪?と呼んだからだ。これまでスンが二人だけのときに?禧嬪?と職名で呼んだことは一度たりともなかった。
やがてスンは感情の読めない瞳でオクチョンを見下ろし、静かに背中を向けた。数人の内官が王を取り囲み、一団は静かに去る。
心が凍るようなまなざし。そんな眼で彼が自分を見たことがかつて一度だけあった。
この冷たいまなざしは、忘れようとしても忘れらるのものではない。かつて女官キム・セリョンがスンの寵愛を受けて懐妊していると思い込み、セリョンに堕胎薬を飲ませた時、スンがオクチョンに向けた瞳と同じだ。
こんな日が来ると考えたこともなかった。
これが自分の望んでいたものだったのか―。オクチョンは魂を手放したようにその場に立ち尽くした。それまで途絶えていた虫の声が一斉に押し寄せてくる。虫の声も耳に入る心の余裕がなかったのだと今更ながらに知れた。
事がそれで終わるはずもなかった。翌朝、義禁府の兵が就善堂を取り囲み、禧嬪張氏は就善堂に軟禁された。
禧嬪の居室の前には、見るからに体躯の良い武官が二人、二十四時間態勢で見張りについた。?護衛?という名の監視であるのは言うまでもない。
「畏れながら、禧嬪さまにおかれましては、殿下のお許しなく就善堂はむろん、お部屋より一歩も出てはならないとの王命です」
責任者らしい男がそれでも態度だけは丁重に言った。オクチョンは文机の前に端座し、男に向き合った。
「私は逃げも隠れもしない。好きなようにするが良い」
昔から、オクチョンの行動基準に?逃げる?という言葉はなかった。かつては明聖大妃の執拗な追及を避けるため、スンや大王大妃に諭され後宮を逃れた。けれど、もう逃げ出したりはしない。
自分は賭けに負けたのだ。負けが判ってなお、敗者があがくほど見苦しいことはない。負けたなら敗者らしく、潔くふるまう。今はせめて泰然とした態度を貫くことがほんのわずかに残った誇りを守るすべであった。
そう、私を軟禁するように命じたのは他ならぬスンなのだ。これ以上、あのひとに何を期待しても求めてもならない。
出逢って二十五年後、二人の関係は最悪の形で終わろうとしているのか? かつてあれほど情熱的にオクチョンだけを求めた男の心の変わり様が今はただ哀しかった。
いや、スンがオクチョンだけを求めたことなど、恐らく一度足りともなかった。だからこそ、オクチョンは夜叉にもなったのだ。
スンが最初から彼女だけを見つめてくれていたら、今のオクチョンは存在しなかった、というのはオクチョンの都合の良い言い理由(わけ)だろうか。
就善堂はいつになく静まり返っている。オクチョンに仕える者たちは最末端の雑用係まで就善堂内に身柄を拘束され、行動を制限されていた。
誠心誠意仕えてくれた者たちに対しては、今となっては申し訳ないと思うばかりだ。我が身のしでかした罪に巻き込むことになってしまった。居室でただ一人、オクチョンは何をするでもなく、ただ眼を瞑り端然と座り続けた。
義禁府の取り調べにより、中宮殿の床下からは五枚の呪符が発見された。更に、禧嬪張氏の命により王妃の呪詛を依頼されたという祈祷師まで現れ、ここにオクチョンの中殿呪詛の罪は確定した。
就善堂が物々しい雰囲気に包まれた丁度その頃、王妃と王が向き合っていた。その日の朝、王妃が大殿を訪ねたのだ。
万事が控えめな王妃にしては極めて珍しい。粛宗は愕きを隠せなかった。
執務室の片隅にある丸机の前、王妃はいつものように淑やかに座った。粛宗が眼を通していた書類の決裁が終わるまで、何も言わず、時折物珍しそうに執務室の様子を眺めていた。
「珍しいな、中殿、あなたがここまで私を訪ねてくるとは」
粛宗が揶揄するように言えば、王妃は我に返った様子で、白い頬をかすかに染めた。
「これは失礼致しました。殿下がお仕事をなさる場所を拝見する機会は滅多とないため、つい不作法な真似をしてしまいました」
いや、と、粛宗は笑った。
「そのように無邪気なそなたを見るのも悪くはない」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ