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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 オクチョンは息を呑んだ。あまりの衝撃に、呼吸が止まるのではないかと思った。
「では、殿下はその女官に逢うために、せっせと中宮殿に脚を運ばれているというの?」
 そこで、オクチョンは、はたと思い当たった。
「殿下が中宮殿に通われているというのは、いつから?」
「それが」
 申尚宮には珍しく口ごもる。オクチョンは、つい声を荒げてしまった。
「いつからだと聞いている!」
 申尚宮が蒼褪めた。
「申し訳ありません、私どもの落ち度でした。実はもう、かれこれ一年にはなるらしいのです」
 ダン。オクチョンは力任せに文机を拳で叩いた。
 申尚宮は蒼白な顔で、うなだれている。
 オクチョンは我に返った。
「ごめんなさい、申尚宮。母とも思うあなたに大きい声を出してしまうなんて、どうかしているわ、私」
 額に手を当てて溜息をつく。申尚宮は首を振った。
「いえ、私の落ち度であるのは確かです」
 申尚宮はキッとした表情になった。
「さりながら、どうにも解せません。同じ後宮内の出来事でありながら、何故、私やイ女官の耳にその情報が入らなかったのでしょうか」
 オクチョンが呟いた。
「わざと報せなかったのね」
 誰かが作意をもって、その情報がオクチョンの耳に入らないようにしたのだ。
 オクチョンは深い息を吐き出し、座椅子にもたれかかった。
「誰も彼もがそうだわ。王妃たるこの私を憎んでいる」
 申尚宮が慌てた。
「そのようなことはありません、中殿さま。私もイ女官も中殿さまを昔から今もずっとお慕いしております。この心はこれから先も未来永劫、変わることはありません」
 オクチョンが淡く微笑(わら)った。
「あなたとミニョンは特別よ。それから、この就善堂に仕えてくれている者たちはまあ、信用はできるでしょう。でも、他の殿舎の女官たちは皆、私を敬遠している。それは周知の事実だわ」
 オクチョンはまた溜息をついた。一年前、前王妃が廃され、後宮を去り、オクチョンが王妃の座に着いた。あのときから、後宮でのオクチョンの風当たりは更に強いものになった。もちろん、王妃であり、内命婦(ネミョンプ)の長である最高権力者のオクチョンに表立って楯突く者はいない。
 しかし、感じるのだ。はっきりとした敵意を。後宮内を歩く時、遠くから向けられる冷たく敵愾心に満ちたまなざしは、見間違いではない。
―慈悲深く気高い仁顕王后さまを蹴落とし、色香で国王殿下を誑かし王妃に成り上がった妖婦。
 誰の眼もがそう語っていた。いまだに後宮内のそこここで
―あのお優しい王妃さまが幼い世子さまを呪詛していたなど、信じられぬ話だ。
 と、真しやかに語られている。皆、前王妃が幼い世子を我が子のように可愛がる姿を見ていたのだ。ただ中宮殿の床下から呪いの人型が出てきた―前王妃が現王妃や幼い世子を呪ったという証拠は実のところ、それだけだ。
 そのことで粛宗が激怒し、前王妃を廃位し後宮から追放した。今や前王妃は庶人となり、実家で謹慎生活を送っている。身内でさえ王の怒りに触れて廃妃となった前王妃には冷たく、母屋とは別の離れで前王妃はお付きの尚宮たちと淋しい暮らしを送っているそうだ。
 身内が王をはばかり経済的援助をしないため、前王妃はその日の食べるものにさえ事欠く有り様で、最近は小さな庭に畑を作って、そこで育てた野菜を食料にしているという。
 名門両班家の令嬢であり、かつて王妃であった人には、あまりに惨い境遇には都の人までもが同情しており、
―妖婦禧嬪張氏の色香に血迷った王さまが無実の王妃さまを追い出した。
 とまで囁いているとか、いないとか。
 更に元々身体の弱かった前王妃は過酷な暮らしに体調を崩し、寝込むことも多いといわれていた。
 宮殿の一歩外に出れば、オクチョンを悪し様に言う民の声が押し寄せてくる。それは宮殿の中でも同じことだ。
―成り上がり者の妖婦めが。所詮は、賤民(チヨンミン)の癖に。
 誰もがオクチョンを蔑みの眼で見る。王妃になる前、この国至高の女性になれば、自分に皆が向ける眼も変わるだろうと思った。中殿の地位につけば、誰もが自分をもう蔑みの眼で見ることはない。そう思っていたのに、現実は違った。
 何も、変わらない。立場が上がれば上がったで、?成り上がり者?とそしられる。オクチョンや世子を呪詛したはずの前王妃は側妾に良人を奪われ追い出された憐れな女で、オクチョンは奴婢の癖に身の程を知らず王を誑かして分相応な地位についた成り上がりだ。
 申尚宮が下がった後、オクチョンの精神も限界を超えた。文机の上の書物を手に取り、思い切り床にたたきつける。
―何故、どうしてなの! あの女は何をしても同情を集めるというのに、私は王妃になっても、蔑みの眼で見られなければならないの。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。気が付けば、オクチョンは薄暗くなった居室で放心したように座り込んでいた。
 いつしかミニョンが側にいた。どうやら暗くなったので、灯火を入れにきたようである。
 文机の傍らの燭台に火を入れた刹那、ミニョンが小さな悲鳴を上げた。
「中殿さま、どうされたのですか?」
 ミニョンに手を取られ、オクチョン自身も初めて気づいた。知らず手のひらに爪を立てたらしく、表面に薄く血が滲んでいる。たいした傷ではなさそうではあるが、鮮やかな傷跡はあたかも紅い糸のようだ。
「お手当を致しましょう」
 立ち上がりかけたミニョンに、オクチョンは何か言いかけ唇を震わせた。
「ミニョン、私が何をしたというの?」
「え?」
 歳を取っても、ミニョンの愛らしい顔立ちは変わらない。その丸い顔に当惑の表情が浮かんだ。
 オクチョンはその場にくずおれた。
「憎まれるのはもうご免だわ。大妃(テービ)さまにもただ賤民出身というだけで、殺されかけるほど憎まれた。王妃になっても、何も変わらないわ。皆が私を白い眼で見る。成り上がり者だと言っているわ」
 ミニョンが慌てて側に寄ってきた。
「オクチョン、お願いだから、落ち着いて。心を昂ぶらせては駄目よ。あなたは今、大切な身体なのよ?」
 そう、オクチョンはスンとの間の三番目の子を身籠もっていた。残念ながら、第二子は流産に終わった。去年の王妃冊封の儀式の時、オクチョンはまさに幸福の絶頂にいた。
 ついに側室からこの国の国母という地位にまで上り詰め、我が子は世子となり、その上、第二子となる男の子まで身籠もっていた。
 そう、ウォルメの予言どおり、息絶えて生まれた子は男児であった。王妃冊立の儀からひと月も経たないある日のことだ。
 特に痛みもお腹の張りもなかったというのに、オクチョンは厠で大量の出血を来たし、子はそのまま流れた。既に妊娠八ヶ月に入っていたから、生きて生まれれば、可能性は低くとも赤児が生きながらえる望みはあったと御医は沈痛な面持ちで述べた。
 だが、赤児は生まれた時、既に息をしていなかった。原因は不明だが、何らかの不測の事態が起きて胎内で死亡してしまったらしい。