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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「そうなのですか?」
 眼を見開く女官に、粛宗は小さく頷いた。
「何故であろうな。王妃を廃したのは自分自身なのに、いまだに私は王妃のことばかり考えている」
「あの」
 言いかけて、女官が口を噤んだ。
「何だ?」
 まだうら若い彼女は困ったように首を傾げた。
「申し上げて、よろしいのでしょうか」
「構わぬ」
 女官は小声で言った。
「殿下、私は、あの慈悲深く、天女さまのような王妃さまが誰かを呪うなど信じられないのです」 
「―」
 粛宗は無言だった。女官は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません、私ってば、出過ぎたことを」
「いや」
 粛宗は小さい声ではあるが、きっぱりと否定した。
「口には出さないが、誰もが考えていることだ。私自身もいまだに信じられない。あの王妃が他人を―ましてや幼い世子(セジヤ)を呪うなど、あり得ないのではとしか思えない」
 そこで、彼はその場の重い雰囲気を変えるように話題を変えた。
「そなたの恋人は、今、どうしている?」
 女官の恋人は、都でも名を知れた商団(サンダン)の跡取り息子だと聞いている。彼女はその屋敷に仕える執事の娘であり、恋人とは幼なじみでもあるのだという。
 嫁入り前の行儀見習いとして後宮に上がり、二年後くらいを目処に出宮して恋人と祝言を挙げる予定なのだと嬉しげに語ったのだ。
 女官は?王の女?とされ、国王以外の男との恋愛は御法度ではあるが、一部では、両班や裕福な商人の娘が嫁入り前の行儀見習いとして出仕する例外もままある。このような場合は、最初から数年の宮仕えと限定されているし、宮仕え前に婚約しているため、他の男と通じたと罪には問われず、罰則は適用されない。
 実は、粛宗がこの女官にかなり親しく話しかけることが知れ、提調尚宮(チェジヨサングン)から直々に
―あの者をご寝所に召されますか?
 と、王の意向を伺ってきたことがある。
 その時、粛宗は、いつも王妃に忠誠を尽くしてくれるあの女官の顔を思い出した。丸顔で愛嬌のある顔は、けして美人ではない。現在、彼の後宮にいる現王妃のオクチョン、西人(ソイン)派から送り込まれてきた崔特別尚宮などには美しさの点では、比べるべくもない。
 しかし、粛宗は彼女といると、何故か心が落ち着いた。その感情は、彼自身が追放した前王妃に対して感じたものに近い。あの娘を側に置けば、前王妃を失った淋しさも幾ばくかは慰められると思い、提調尚宮にも頷こうとして、少し返事を迷った。
―いずれ、そうなるとしても、まだそのときではない。
 提調尚宮には、そう応えた。翌日、いつものように中宮殿を訪れた際、粛宗は初めて彼女と様々な話をした。その中で、彼は自分の予感が当たっていたのを知る。
 娘には、既に許婚(いいなずけ)がいた。年頃からしても、あれほど心映えの優れた娘に末を交わした男がいないとも思えず、提調尚宮への返事を保留にしたのだ。
 案の定、娘には宮仕え前に婚約した男がいた。頬を染めて恋人のことを話す彼女を見て、少し心が波立たなかったといえば嘘になる。
 オクチョンを除けば、彼が初めて自ら見初めて側に置いても良いと思った女官だったからだ。
 だが、他人の女を無理に奪う真似をするつもりは一切なかった。何より、好意を持った女には幸せになって欲しい。もちろん、娘への思慕がごく淡いもので、オクチョンに初めて出逢った頃のような燃え盛る烈しいものではなかったのも理由ではあった。
―それに、俺ももう三十だ。十七の若い娘を若いヤツと争うのも大人げない。
 そんな想いもあった。その娘に婚約者がいると知ってから、粛宗は提調尚宮には
―例の件はなかったことにしてくれ。
 と、はっきりと拒絶した。
 粛宗がそんなことをぼんやりと思い出していると、女官の声が雨音に混じって耳を打った。
「年が変わったら、いよいよ旦那さまの跡を継いで正式な商団の行首となるそうです」
 心なしか華やいだ声に、粛宗は笑顔で頷いた。
「では、祝言も近いな」
「―はい」
 粛宗は立ち上がった。見上げる女官と視線が交わった。
「そなたがいなくなると、また淋しくなる。なれど、それがそなたの幸せのためなら、私も我慢できそうだ。あまり雨に濡れては風邪を引く。ここはもう良いから、中に入って少し休憩しなさい」
 粛宗の言葉に、彼女は?はい?と素直に頷く。彼は女官に手を振ると、雨の中を傘を差して中宮殿に背を向けた。ほどなくして、物陰で待機していた王の護衛、ホ内官がその後に続く。
 降り続く雨は、まだしばらく止む気配はなかった。

「では、二は?」
 オクチョンが優しく問いかけると、つぶらな悔い瞳が彼女を見上げる。小さな両手で薬菓を二つつまみ、得意そうにオクチョンの眼の前で振って見せた。
「まあ、世子」
 オクチョンはユンに、にっこりと笑いかける。
 傍らで見守っていたミニョンが歓声を上げた。
「素晴らしいですわ、中殿さま。世子さまは、このお年でもう、数がお解りになるのですね」
 粛宗が中宮殿を訪ねた同じ日の夕刻である。就善堂では、幼い世子を囲んで、生母のオクチョン、お付き女官のミニョンが愉しく時を過ごしていた。
 オクチョンと粛宗の間の一粒種ユンは、今、二歳八ヶ月になった。言葉も舌足らずではあるがよく話すし、なかなか利発な子である。
 最近、オクチョンはユンに数を教えようと躍起になっているところだ。
「では、世子さま、三つはお解りになりますか?」
 子のいないミニョンはユンをそれこそ甥どころか、自分の子どものように可愛がっている。ミニョンが真剣に問えば、ユンは愛らしく首を傾げ、しばらくして小卓の皿に盛られた薬菓を三つ取り上げた。
「まあ、凄い」
 ミニョンはユンを抱きしめ、頬ずりする。
「中殿さま、世子さまは必ず聖君(ソングン)と呼ばれる偉大な君主におなりですわ」
「ミニョンったら、それは幾ら何でも親馬鹿過ぎよ」
 オクチョンが笑い転げている時、控えめに隣室の扉が開いた。見れば、申尚宮が顔を覗かせている。
「愉しくお過ごしのところですが、少し、よろしいでしょうか、中殿さま」
「ええ。構わなくてよ」
 オクチョンが鷹揚に言うと、申尚宮が素早い動作で室に入ってくる。ミニョンに眼顔で合図し、心得たミニョンがユンを抱き上げ室を出ていった。
「何か気になることでも?」
 オクチョンが上座の座椅子に座り直すのに、申尚宮は文机を挟んで向かい合う。
「実は、良くない噂がございます」
「良くない噂?」
「はい」
 申尚宮は更に膝をいざり進め、声を落とした。
「国王殿下(チュサンチョナー)が中宮殿に足繁く通われているそうです」
「何ですって?」
 思わず声が高くなり、オクチョンは掌で口を覆った。申尚宮は相変わらず低めた声で続ける。
「でも、何故なの? あそこは今は無人のはずでしょう」
 信頼する申尚宮の前でも、あまりに無様なところは見せたくない。今や我が身は中殿と呼ばれる、この国の国母なのだ。オクチョンが自らを落ち着かせるように手のひらを胸に添える。
 申尚宮は怖いくらいに真剣な顔だ。
「実は、留守居役の女官と殿下が深間になっているとの噂もございます」
「―っ」