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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「つまりは、それが私と王妃の運の違いということか」
 オクチョンがギリッと歯を噛みしめたのを見、ウォルメがたじろいだ。
「真にご無礼を申し上げました」
「いや、真のことを教えてくれた方がありがたい」
 オクチョンは鷹揚に言い、笑顔になった。
「それで、こたびはどのような祈祷を行えば良いのでしょうか」
 この七年間、王妃の気力が衰える祈祷は何度も行っている。?死?を願う祈祷は呪い返しも大きいと聞き、前回の祈祷以来、流石にオクチョンも今日までは依頼するのを躊躇っていた。
 しかし、ウォルメの言うように王妃が天の守護を受けているのは真実らしい。あの女は七年もの年月をかけて呪詛しているというのに、いつまでもたおやかな美しさを保ち続け、いまだにスンの寵愛を得ている。
「?死?だ」
 オクチョンのひと言に、ウォルメの表情が固まった。
「そなたの力をもってしても、あの女の気力を衰えさせることはできぬと見える。やはり、そろそろ賭けに出ねばならないということだろう」
「畏まりましてございます」
 ウォルメは恭しく頭を下げた。
「事が成就した暁には、礼は望みのままに取らせよう」
「ありがとうございます」
 ウォルメが出ていった後、オクチョンはスと立ち上がった。妓房に入ったのはまだ黄昏時であったというのに、窓を通して室内に差し込む光はとうに失われ、外の世界は闇の色に覆われているようである。
 オクチョンは通りに面した小窓を細く開けた。この室は妓房でも奥まった二階に位置する。密談を交わすには持ってこいだ。
 ふと、いずこからか一匹の蝶がふわふわと漂ってきた。オクチョンが息を呑む前で、小さな蝶は窓の透き間から室にまで入り込み、オクチョンの周囲を頼りなげに飛び回る。
 よくよく見れば、蒼く透明な羽根には複雑な文様が刻まれた美しい蝶である。それは、オクチョンが長らく大切にしていた衝立―スンから誕生日祝いとして贈られた―に蓮の花と一緒に描かれていた蝶に似ていた。
 確かに、あの蝶も蒼く、羽根には繊細な透かし模様が描き込まれていた。
 しかし、あの衝立に描かれていた花も蝶もオクチョン自身が墨で塗りつぶしてしまったのだ。今、蒼き蝶は禍々しいほどの美しさで、あの衝立から現の世界へと舞い戻ってきたのか。闇一色のあの世から、この世へと還ってきた一匹の蝶。 
「何と美しい」
 オクチョンは魅入られたように蝶を眺めた。
 蝶はしばらくオクチョンの回りを飛び回り、やがてまた細く開けた窓から出ていった。幾ら外を覗いても、頭上にはただ煌々と月が輝いているだけだ。
 刹那、血の色のように赤く染まった月の周囲を飛び回る蝶をオクチョンは確かに見た。
 先刻は深い水底(みなそこ)のように蒼く染まっていた蝶は今や不吉な血の色を帯びている。
 血の色といえば、どうしてもオクチョンはあの悪夢―就善堂に入ろうとして血の雨を浴びる夢を思い出してしまう。
 果たして、あの血はオクチョン自身のものか、王妃のものなのか。オクチョンは迷いを断ち切るかのように首を振った。
 駄目だ、こんな弱気ではいけない。
 手ぬるいことはしない、手加減は一切無用、今度こそ、王妃の息の根を止めるのだ。
 そして、私のスンをこの手に取り戻す。
 オクチョンが物想いに耽っている間に、気が付けば蝶は幻のように消えていた。相変わらず血の色を宿した月だけが蒼白く人気のない色町の道を照らしているだけだった。
   
 一方、妓房を出たウォルメは溜息をついた。
たった今、自分が会ってきたばかりの人物の面影を瞼に甦らせる。禧嬪張氏、憐れな女だ。そこまで他人を憎まねばならいとは。
 齢四十を超えてもなお、ウォルメが初めて見たときの派手やかな美貌はいささかも衰えてはいない。禧嬪の一人息子は今も世子の地位にあり、降格されたとはいえ、彼女は次の王の生母なのだ。
 余計な欲をかかず、嫉妬などに我を忘れなければ、次代の王の母として栄耀栄華を極められるのに。
 今回、何故、禧嬪が動いたのかその理由をウォルメは知っている。禧嬪が掌中の玉と愛でる息子、世子の嫁取り問題が浮上したからだ。
 世子の妃、世子嬪候補は幾人か名が挙がっていて、その有力な候補に王妃の姪が含まれているのだ。大人しい世子は、才気煥発な美少女であるその娘をかなり気に入っている。自身が学問好きで無口なため、かえって打てば響く朗らかな娘に惹かれるのだろう。
 大切な息子の嫁に王妃の姪など、とんでもない。また政治的な意味でも、西人の息の掛かった娘を世子に近づけるのは南人は何としてでも阻止したいところだ。禧嬪は何とか世子を説得して南人の有力者の娘を世子嬪に冊立しようとしているが、こればかりはさしものの禧嬪もどうしようもない。成長した息子は、既に母の言うなりになる幼児ではないのだ。
 自分が可愛がっている姪が養子でもある世子に嫁ぐのを王妃は心から望んでいる。そのことが禧嬪の王妃憎しの心に火を付けたのだ。この七年というもの、禧嬪の心には常に王妃への嫉妬がくすぶっていた。
 ウォルメは七年の間、禧嬪に頼まれた祈祷など内実は一切行っていない。かつてファヨンにも語ったように、禧嬪の王妃への途方もない憎しみこそが両刃の刃となり、禧嬪を傷つける。つまり、禧嬪は王妃に向かって刃を振り上げたは良いが、返り討ちに遭うのだ。
 最早、ウォルメが手を下すまでもなく、禧嬪の命運は遠からず尽きるだろう。この七年もの間、降り積もった王妃への憎しみは、明らかに禧嬪自身の生命を削り取っていっている。なのに、この上、あの女は死に急ごうというのか。
 更にウォルメが祈祷を行えば、まだわずかに残った余命すら、あの女は失うことになるというのに。
 ウォルメは周囲に人影がないのを注意深く確認し、外套を目深に被った。
 早速、このことをファヨンに知らせなければ。今やあの小娘も正一品の嬪だ。しかも、第二王子の生母であり、西人の重鎮ク・ソッキという後ろ盾を持ち、後宮でも侮れない勢力を持っている。
 何の後ろ盾もなく、とうに王の寵愛を失った禧嬪につくより、あの小娘につく方がよほど利口というものだろう。
 ウォルメは首を傾げた。
 それにしても、人の運命とは判らないものだ。刃をつきつけられた時、ウォルメはあの小娘がよもや嬪となり、更に王子の生母となるまでは考えもしなかった。
 天に守護されている王妃のゆく末まで視えるというのに、何故か、あの崔ファヨンの未来だけはウォルメには読めない。読もうとしても、濃い霧のようなものに阻まれて見えないのだ。
 もしかしたら、チャン・オクチョンよりも、王妃よりも、あの小娘の方がよほど何かに守られているのかもしれない。
―これは面白くなりそうだ。
 ウォルメはクックッと嗤った。あの小娘がもし、嬪などで終わる運命ではなかったとしたら?
 あの小娘に与しておけば、思わぬ恩恵に預るときがくるだろう。計算高い占い師は狡猾そうな笑みを浮かべ、歩いていく。やがて、彼女は気配も残さず夜陰にその姿を消した。

 その翌朝、大殿で執務中の粛宗を淑嬪が訪ねた。この淑嬪崔氏こそ、崔ファヨンである。