炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
オクチョンの顔が紅く染まったのは、怒りのせいだった。オクチョンは悔しげに唇を嚼み、なおいっそう肩をそびやかし足音も荒く歩み去った。
ユンが何か物言いたげに何度も振り返り、王妃を見ていたが、オクチョンは引きずるようにして連れていった。
尚宮が王妃にすかさず言う。
「中殿さま、先刻の禧嬪のふるまいは許されない所業です。身分の賤しい生まれ育ちゆえ、あのような粗暴さが直らないのでしょう。私、国王殿下にこのことをお伝え致します」
と、王妃が首を振った。
「良い、黙っておれ」
「ですが」
言いかける尚宮に、王妃はやや厳しい声音で言った。
「それから、禧嬪は世子の母だ。次の王の生母には、たとえ中宮殿の尚宮とはいえども敬意を払わねばならぬ。今後、禧嬪を貶めるような発言をすれば、そなたとて容赦はせぬぞ」
「承知致しました」
尚宮が不服そうに口をつぐむのを見、王妃は呟いた。
「禧嬪のふるまいを殿下に告げるのは容易い、されど、それでは世子があまりに不憫だ。あの子はあんなに母親を慕っている」
側室が通りすがりの王妃に唾を吐きかけ、あまつえ暴言を浴びせかけた。それだけで重い罪になるのは判っている。王妃とて人間だ、唾を吐かれて、嬉しいどころか禧嬪に対しての怒りはあった。しかし、事の次第を告げれば、粛宗は激怒し禧嬪に何らかの罰の与えるだろう。その時、哀しむのは世子だ。幼い世子が哀しむのを考えただけで、王妃は胸が痛んだ。だからこそ、禧嬪の度を過ぎた無礼を見逃したのだ。
ユンを東宮殿まで送り届け、オクチョンは就善堂の自室に戻った。
隣室に控えている申尚宮を呼べば、すぐに返事があった。畏まる申尚宮に、オクチョンはきっぱりと告げた。
「ウォルメに逢いたいの。別邸まで私が出向くから、手筈を整えて」
心なしか、申尚宮の顔が少し蒼褪めたような気がしたのは、オクチョンの気のせいであったろうか。
赤い月〜生と死〜
遠方からかすかに伽耶琴(カヤグム)の音(ね)が響いてくる。時折、それに混じる女の嬌声に、オクチョンは露骨に眉をひそめた。
ここは都の外れ、色町の一角である。オクチョンの兄チャン・ヒジェの愛人が経営している妓楼だ。この女自身が妓生上がりで、ヒジェが大枚で落籍してやって、今の見世を持たせたのだ。
オクチョンは占い師のウォルメと密談する際、たまにここを使った。以前、後宮から追放されていたときに暮らした別邸とここを時により使い分けている。
服装も宮殿でのように豪奢なものではない。仕立ては良いが、落ち着いたチマチョゴリを纏った彼女は、王の側室というよりは両班家の奥方に見えるはずだ。
いつも同じ場所で会うよりは、場所は違えた方が良い。ここの他にも何カ所か使っている場所はある。
「遅い」
いつまで待たせる気であろうか。オクチョンは唇を嚼みしめ、立ち上がった。室に入ってからでさえ、そろそろ一刻余りになろうとしている。
気が短い方ではないと自他共に認めるオクチョンも、流石に我慢の限界に達しかけていた。だが、今となっては頼るのはウォルメの能力(ちから)しかない有り様だ。思い直し、再度座った。
頃合いを見計らったかのように、外側から声がかかった。
「ウォルメにございます」
「入れ」
ほどなく扉が開き、占い師が入ってくる。いつものように丁重な態度を崩さず、室に入るやオクチョンに深々と一礼した。
オクチョンのは上座の座椅子に座り、その前には小卓が置かれている。その上の茶菓には一切手が付けられていない。ウォルメは小卓を挟んで下座に座りながらも、手を付けられていない茶菓はちゃんと見たようである。
「お待たせ致しまして、申し訳ありません」
「いや、そなたも忙しい身だ。無理を言って時間を作ってもらったゆえ」
この頃、ウォルメの評判は上々である。戸曹判書の一人息子が難病にかかり、名医と呼ばれる医者でさえ見放した。その重病人をウォルメの祈祷で見事に完治させた。その噂が噂を呼び、下町のウォルメの住まいであるあばら屋の前には毎日、行列ができているという。
まったく変わった女だとつくづく思う。見た目は十二年前と少しも変わらず、二十歳そこそこにしか見えない。これほど外見の変わらない女もそうそういないのではないか。もしかしたら、十二年前と変わらぬ容姿を保っているのも並外れた能力のせいなのだろうか。
実のところ、そのような能力があるならば、オクチョンだとて欲しい。出逢ったときと変わらない若々しい美貌を保てば、スンの心をいつまででも繋ぎ止められたかもしれない。
そこまで考えて、馬鹿なと苦笑する。スンの心がオクチョンから離れたのはもうはるか昔なのに、今更若返ったとて何になるのか。
いつまでも未練がましい自分が嫌になる。
王妃が復位してから、はや七年の年月が経った。あるときは場所を変えて、こうしてウォルメとの関わりを断たずにいたのは、こんなときのためだ。
「そなたに今一度、祈祷を頼みたい」
単刀直入に言うと、ウォルメはハッとした表情になった。ややあって、うつむけていた顔を上げてオクチョンをじいっと見る。
「禧嬪さまは既に二人の御子さまを失われました。それでもなお、三度目の祈祷をなさると?」
「ああ」
オクチョンは当然のように頷いた。
ウォルメはまた顔をうつむけた。
「十年前、禧嬪さまは三人目の御子さまを失われました。さりながら、中殿さまの死を望まれる祈祷をしてもなお、禧嬪さまご自身がご無事であったのは、ひとえに禧嬪さまがご強運であったからです。しかし、三度目も呪詛を行うとなると、今度ばかりはどうなるか私にも自信は持てません」
「構わぬ」
オクチョンは多い被るように言った。
「三番目の子を失って以来、王さまのご寵愛も薄れた。最早、私には何も残ってはおらぬ。この生命差し出して、あの女を消せるものなら本望だ」
ウォルメはしばらく無言を守っていたかと思うと、小さく頷いた。
「承知しました。祈祷をお引き受けします」
「ところで」
オクチョンは先刻から気になっていたことを訊ねた。
「先ほど、そなたは私が強運であったと申したな。ゆえに、十年前の祈祷の際は生命を失わなかったと」
「はい。そのように申しました」
「いつか、そなたは言った。王妃は天の守護を受ける者であるとな。いわば神仏に守られた者であるからこそ、そなたの神力でもってしても王妃を消すことはできないと聞いたぞ」
「その言葉に間違いはありません」
「私もまた強運であるというのに、何故、同じように天に守られている王妃に打ち勝てないのだ?」
ウォルメが頷いた。
「強運であるというのと、天に守護されているというのとは少し意味が違います、禧嬪さま」
「と、いうと?」
畳みかけるように問えば、ウォルメは笑った。
「強運というのは、文字通り、運が強いという意味です。対して中殿さまは天に守られているのです。運は強いとは申せ、それは所詮人の力が及ぶ領域、万が悪ければ強運であっても厄を避けることはできません。しかし、天の守護を受けた者はいかなる災厄からも逃れられます。二つの間には、大きな違いがあるのです」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ