炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
ユンの手を握った母の手に力がこもった。
―そんなに力を込められては痛いです。
言おうとして、ユンは言えなかった。いつもは花のように綺麗な母の顔が鬼のように見えたからだ。
母が王妃と呼ばれる人を見据えて言った。
「あなたは私からどれだけのものを取り上げれば気が済むのですか?」
王妃は何も言わない。相手が落ち着いていればいるほど、母は余計に激高しているようだ。
「世子だけは渡さない。たとえ、あなたが私から何を奪おうが、この子だけは渡すものですか」
母は言うだけ言い、ユンの手を引っ張った。
ユンは女の人のことが気になって、後ろを振り返った。
「またな」
王妃が優しい笑みをひろげる。ユンもつられて笑おうとして、なお腕を強く引っ張られた。
「禧嬪、子どもに当たるのは止しなさい。そんなに強く引いては、世子の手が抜ける」
王妃に逆に諫められ、母は余計に機嫌が悪くなった。ユンの手を振り払い、一人でさっさと歩いてゆく。
「母上、母上、お待ち下さい」
ユンはべそをかきながら、母の後を慌てて追った。
就善堂に帰ってから、ユンは母にこっぴどく叱られた。
「もう二度と中宮殿に行ってはいけません」
「母上、あの方が王妃さまなら、尚宮の申すように、私のもう一人の母上ということになるのではありませんか。王妃さまだというなら、むしろ私の方から毎日、ご挨拶に伺うべきだと思います」
思ったとおりを言うと、母は何故かワッと泣き伏した。ユンは慌てた。自分は何かいけないこと、母を哀しませるようなことを言っただろうか。
母はか細い背中を波打たせて泣いている。そんな母の哀しみ様を見ていたら、ユンはもう何も言えなくなった。ユンは何より母の涙に弱いのだ。
その年の九月十二日、崔ファヨンは粛宗の事実上、第二王子となる男子を出産した。ファヨンが産気づくと粛宗は産室まで駆けつけ、陣痛に苦しむファヨンを励まし続けた。
粛宗の崔淑媛に対する態度は、普段は冷淡とさえいえた。淑媛が身籠もったのは二度目に召された夜で、それ以降、棄ておかれた形だったのだ。わずかな契りで見事に懐妊、しかも男子に恵まれるとはよほど強運の持ち主よと誰もが崔淑媛を羨んだ。
淑媛に対する寵愛は別として、粛宗も自分の子を身籠もった女を捨て置けなかったのだろう。ファヨンが出産するまでは大殿にも戻らず側に付き添ったのだった。
この生まれたばかりの小さな王子はクム(ヨニン君)と命名された。後の朝鮮第二十一代国王英祖の誕生であった。
現在のところ、粛宗の王子は禧嬪張氏の産んだ世子のみである。ファヨンの功績は計り知れず、同年、淑媛から一躍、従二品淑儀に進み更に翌年、従一品貴人となる。
ファヨンが王子を出産したと報せを受け、オクチョンは適当な祝い品を代理の者に届けさせた。産着を仕立てられるだろうからと、白練の上絹を幾単も贈ったのだ。だが、オクチョン自身はお祝いにも見舞いにも行かなかった。
他の女が産んだスンの子など見たくもない。これまでは、たとえ寵愛を失ってもスンの子を産んだ女は自分だけという誇りがあった。しかし、今は違う。あのいけ好かない小娘がスンの二番目の息子を産んだのだ。オクチョンはますます塞ぎ込むことが多くなった。
聞くところによれば、王妃は生誕直後にファヨンを訪ね、王子出産の労をねぎらったという。その後もしばしば足を運び、自ら赤児を抱き、ファヨンとも親しげに言葉を交わしているという話だ。
―馬鹿らしい。
オクチョンは一笑に付した。王妃は復位したことで、西人派の旗頭に返り咲いた。ファヨンも西人派の筆頭ク・ソッキの養女として後宮入りし、見事に王子をあげたのだ。
同じ派閥に擁されている者同士、たとえ正室と側室とはいえ、仲良くするなら勝手にすれば良い。しかし、王妃もつくづく馬鹿な女だと思う。
幾ら他人の―側妾の産んだ子を可愛がろうとも、所詮は他の女の産んだ子に過ぎない。自分が子を産まない以上、いつまた西人派から見限られるとも限らないのに、それが判っているのだろうか。利用価値のない王妃など、西人派にとっては何の意味もないのだ。
あの女はまるで現実が見えていない。
だが、王妃自身がスンの子を産まないと、どうしていえるだろう。王妃はまだ二十七歳と若いのだ。既に三十五歳、女の盛りをはるかに超えた自分とは誓う。
それでなくとも、復位した王妃への粛宗の寵愛は並々ならぬものがあった。もしかしたら、次に生まれる第三王子こそが王妃を母として誕生するかもしれないのだ。
もし、仮にそうなったら、我が子ユンの立場はどうなる? オクチョンが王妃であれば良かったが、今は降格されて嬪の地位に逆戻りだ。今のユンは嫡出子ではなく、庶子でしかない。王妃が王子を出産した場合、側室の子にすぎないユンの立場はとても微妙だ。
オクチョンは唇を噛みしめた。
憎い、あの女が憎い。オクチョンの王妃への憎悪は日を経るに従い、降り積もる雪のように募ってゆく。
王子誕生からさほど日を経ないある日、九月もそろそろ終わりに差し掛かった蒸し暑い日だった。
オクチョンは、ユンの手を引いて東宮殿に向かっていた。オクチョンに挨拶に来たユンを送っていく途中だった。いつもなら就善堂の前で見送るのだが、今日はユンがいつになく淋しげだったので、送っていくことにしたのだ。そうすれば、もうしばらくだけ一緒にいられる。
そう告げると、ユンは嬉しそうな顔になった。手を繋いで殿舎と殿舎の間の道を歩く母子の後を申尚宮とミニョンがついてくる。
東宮殿も近くなった時、オクチョンは対向方向から集団が近づいてくるのに気づいた。
尚宮や女官を引き連れた王妃の一団である。しきたりからいえば、ここは側室であるオクチョンが先に脇に寄り、王妃が行き過ぎるのを待つべきだ。しかし、オクチョンにはついこの間まで自分こそが王妃であったという自覚が強かった。
なので、王妃に気づいても道を譲る気はさらさらない。かえって顎を逸らし、堂々とすれ違おうとした。
あろうことか、先に止まったのは王妃の方である。王妃はオクチョンに気づくや歩みを止めた。
「今日は暑いな」
王妃はオクチョンに微笑みかけ、次にユンに視線を向けた。
「世子、元気にしているか?」
事件はそのときに起こった。オクチョンがペッと唾を王妃に吐きかけたのだ。その不作法なふるまいには、一同が凍り付いた。流石に申尚宮とミニョンでさえ、固唾を呑んだ。
「なっ、何ということを。禧嬪さま、中殿さまに対して、あまりに礼をわきまえられぬおふるまいではありませんか」
声を震わせて抗議する尚宮に向かい、オクチョンは躊躇いもなくまた唾を吐いた。
「中殿の地位は元々、私のものだ。それをこの小賢しい雌猫のような女が横から奪い取ったのではないか」
「中殿さま、もう我慢がなりません。禧嬪さまはきっとご乱心なさったに相違ありませぬゆえ、事の次第の王さまに申し上げましょう」
尚宮が怒りに震えながら言うのに、王妃は黙って静かに頬の唾を拭った。まるで何もなかったかのように、オクチョンに微笑んだ。
「このように暑い日ゆえ、どうせなら唾ではなく冷たい水の方が心地良かった」
「―っ」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ