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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 そのひと声に、オクチョンが笑い出し、なおいっそう、その場は笑いに包まれた。
 何故、皆がそこまで笑い転げるのが理解できないのは当のユンだけだった―。
 通り過ぎた母を見ながら、ユンはつぶらな瞳を瞠った。母は間違いなく泣いていた。
 母が泣いているのを見たのは初めてだ。哀しそうな顔をよく見かけるけれど、涙を流すほどのことがあったのだろうか。
 彼は小さな胸を痛めつつ、踵を返した。
 傍らの保母尚宮が丁重に訊ねてくる。
「禧嬪さまにご挨拶はよろしいのですか?」
「今日は良い。また明日、お訪ねしよう」
 ユンは小声で応え、来たときとは裏腹に力ない足取りで帰路を辿った。
 何故、母上は泣かれていたんだ?
 よほどのことがあったのだ。母は強い女だから、人前で涙を見せるのを嫌う。一体、何がそこまで母を哀しませたのか。大好きな母が泣いているのを見るのはユンも辛い。
 思わず、ほろりと涙したその時。
「世子ではありませんか?」
 前方から声がかかり、ユンは弾かれたように顔を上げた。見れば、綺麗な女の人が立っている。母に負けないくらい綺麗で、しかも豪華な服を着ていた。ユンは初めて見る人だ。
 不思議そうに見ていると、女の人が近づいてきて、しゃがみ込んだ。
「ご立派になられた」
 と、女の人の輝くような面がふと翳った。
「泣いていたのか?」
 指摘され、ユンは真っ赤になって涙を拭った。父にいつも言われている。
―男子たる者、特に王になるべき者、みだりに泣いてはならぬ。
 なので、胸を張って言った。
「泣いてはおりません」
 そこで、うつむいた。
「ただ」
「ただ?」
 顔をのぞき込まれ、つい口にしてしまった。
 女の人の笑顔がとても優しそうだったから。
「母上が泣いていました。何が哀しいのか、とても哀しそうで。私が訪ねてきたのも気づかないくらいでした」
 母の泣き顔が甦り、不覚にも涙が湧いた。堪え切れない涙が滲み出て、頬をころがり落ちた。
「可哀想に」
 女の人が呟き、ユンの頭を撫でた。幼子が一人で泣いているのを見かねたらしい。
「来なさい」
 女の人はユンの手を引いて歩き始めた。保母尚宮はしきりに何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わず、女の人の言うままユンの後に付き従った。
 
 少しく後、ユンは初めて来た殿舎にいた。ここがどこなのか判らないが、どうやら女の人が暮らしている住まいのようである。
 利発とはいえ、六歳の幼子であった。誘われるままについていったのだ。ユンには判った。この女の人は自分を害したりはしない。母からいつも
―知らない人についていってはならない。知らない人から与えられた物を食べてはならない。
 くどいほど言い聞かされているけれど、この人なら大丈夫だと判った。幼い子どもほど、勘が鋭い。危害を与えそうな人物なら見抜くものだ。この美しい女性から敵意はまるで感じられなかった。
「何か召し上がりたいものはあるか?」
 問われたので、
「薬菓」
 と、素直に応えた。ほどなく女官が現れ高坏に山盛りになった薬菓をユンの前に置いていった。
「好きなだけ召し上がれ」
 女の人に優しく言われ、ユンは満面の笑顔で頷いた。
「戴きます」
「行儀の良い子だ。禧嬪は良い子に育ててくれたのだな」
 女の人が優しい眼でユンを見ている。ユンは照れくさくなり、薬菓を頬張った。あまりに頬張りすぎて噎せ、女の人が慌てて背をさすり、お茶を飲ませてくれた。
「私を憶えているか?」
 唐突に問われ、ユンは首をゆっくりと振った。女の人が微笑んだ。
「無理もない。そなたを抱っこしたり、襁褓を替えたのは、そなたがまだ赤児の時分だ」
「私が赤児の頃のことをご存じなのですか?」
 ユンがあどけない口調で問うのに、彼女は頷いた。
「よく知っている。生まれたときから今も、そなたはずっと私の宝だ。ようここまで健やかにお身大きくなられた。そなたがおられる限り、この朝鮮国は安泰だ」
 女の人の言葉は難しすぎて、ユンにはまだ判らない部分があった。
 と、女の人がつと手を伸ばす。
「お菓子がついていた」
 どうやら、ユンの口回りに薬菓の欠片がついていたらしい。ユンは紅くなった。食べ残しを顔につけても気づかないとは恥ずかしい。特に、こんな綺麗な女の人の前では、男子としてはあるまじきことだ。そこで慌てて居住まいを正した。
「女性にそのように気を遣って戴くとは、男子として恥ずかしいことです」
 途端に女の人が笑い出した。軽やかな、とても綺麗な声だ。綺麗な女性というのは声までも美しいのだろうか。ユンの母も美しい女だけれど、この女の人も負けないくらいに美しい。ユンはうっとりと綺麗な女性を見た。
「世子はまだ子どもではないか」
 笑いながら言われ、ユンは真顔で否定した。
「私はもう六歳です。子どもではありません。私の母も母に仕える者たちも皆、揃って私を子ども扱いします。ですが、私はもう赤児でもなく子どもでもないのです!」
 胸を張ったユンを見て、美しい人は笑いを堪えているようだ。
 この人まで私を子ども扱いするのか。ユンが頬を膨らませたそのときだった。音を立てて居室の扉が開いた。ユンが呆気に取られる前で、母が飛び込んできた。
「中殿さま、これはいかなる仕儀にございますか?」
 母はユンが見たこともないほど怖い表情をしている。
 女の人は眼を見開き、母の登場に愕いているようだ。
「世子を何の断りもなく連れ去られるなど、そんなことが許されると思っているのですか!」
 ユンの前で、母は怒鳴った。女の人が気の毒になり、ユンは思わず言った。
「母上、それは違います。この方が勝手に連れてきたのではなく、私自身が来たいと思ったから、この方に付いてきたのです」
「お黙りなさいっ」
 鋭い叱責が飛び、ユンは身を縮めた。
「知らない人についていっては駄目と言ったでしょう」
 うなだれるユンを庇うように、女の人が言う。
「禧嬪、就善堂には世子がここにいると遣いを出して知らせたはずだが」
「それゆえ、迎えにきたのです。大切な世子をこのような場所に寸刻たりとも置いてはおけません」
「そなたは私を知らぬ人と申すが、世子とはこれが初対面ではない。先ほども世子にそのことを話していた」
「母上、この方はどなたなのですか? 私が赤児の頃から知っていると仰せでした」
 不思議そうに母を見上げても、母は何も言わない。代わりに女の人の側にいた尚宮が控えめに言った。
「このお方は王妃さまにございます、世子邸下(セジャチョハ)のもう一人の母君であられらますよ」
 その言葉に、母が物凄い形相で尚宮を睨んだ。
「世子は私一人の子だ。断じて中殿さまの子などではない」
「王妃さま」
 ユンは眼を瞠り、女の人を見た。この綺麗な人が王妃さまだったとは。けれど、申尚宮やミニョンは言っていたのではなかったか。
―王妃が禧嬪さまを蹴落として、そのせいで禧嬪さまはいつもお泣きになってばかりいる。
 では、母が泣いているのは、この人のせいなのか? けれど、泣いているユンを優しく慰めてくれたこの人がそんなことをするとは信じがたい。
「とにかく、世子は連れて帰ります」
 母がユンの手を握った。
「世子、帰りますよ」