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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 就善堂から聞こえてくる噂は、相も変わらず芳しいものではなかった。オクチョンの感情の起伏はますます烈しくなり、お気に入りの申尚宮とミニョン以外、最近は近づくのを許さないとまで伝わってきた。
 だが、オクチョンの気鬱の原因を作ったのは他ならぬ粛宗自身であることは判っている。王妃を陥れようと画策した罪は許せるものではないけれど、ただ一人の息子である世子の母、生涯の想い人と定めた女であれば、一度の過ちは大目に見ようと考えている。つまるところ、彼はオクチョンの罪を問うつもりはなかった。
 心優しいオクチョンとて所詮は人間だ。長らく伏魔殿と呼ばれる後宮で生きてきて、その出自ゆえに蔑まれることも多かった。若木のような真っすぐな心がねじ曲がってしまったとしても仕方ない面もある―と、粛宗は今回に限り見て見ないふりを通すことに決めたのだ。
 降格は、誇り高いオクチョンにとっては十分な罰になったはずだ。ゆえに、ここらでオクチョンともそろそろ和解したいと願っている。悪い噂に惑わされず、彼女と直接対し、真実の彼女を粛宗自身が見極めることが大切ではないか。
 同じ王宮に住まっているため、オクチョンを見かける機会は結構あった。遠くから見かけて歩み寄ろうとしても、何故か脚が縫い止められたように動かない。オクチョンはといえば、彼女の方も物言いたげに見つめてくるだけで、話しかけてこようとはしない。
 どちらも、あまりにも互いを想いすぎる上、不器用すぎるといえればいえるが、その不器用さゆえに、いっそう二人の距離感は大きくなるばかりだった。
 ある日のことだ、オクチョンは久しぶりに散策に出かけた。あまりに室に閉じこもってばかりのオクチョンの身を案じ、申尚宮とミニョンに勧められたのだ。
 桜は散ってしまったけれど、新緑がみずみずしく広大な庭園を彩っている。
 オクチョンは申尚宮とミニョンを従え、ゆっくりと池の畔をそぞろ歩いた。
「そろそろまた蓮の季節になるわね」
 オクチョンが陽光を弾く池面に眼を細める。背後のミニョンがすかさず応じた。
「禧嬪さまは蓮花がお好きですね」
 最近になって漸くオクチョンだけでなく、彼女の周囲の者たちも?禧嬪?の称号を平気で使えるようになっていた。降格された当初は、?中殿さま?と言いかけて慌てて口をつぐんだものだ。
 オクチョンは笑いながら頷いた。
「ええ、一番大好きなのは紅吊舟だけれど、その次は蓮花かしら」
 言い終わらない中に、オクチョンはミニョンが顔を強ばらせたのを見た。彼女の視線の先を追えば、そこには談笑しながら対岸を歩く王と王妃の姿があった。
 王妃が何やら言ったものか、粛宗が愉しげに声を上げて笑う。小柄の王妃が伸び上がるようにして粛宗に囁きかけ、粛宗はいちいちそれに優しく頷いている。
 他人には似合いの微笑ましく美しい夫婦の姿に映じているだろう。けれど、オクチョンが受けた打撃は計り知れないものだった。
「禧嬪さま」
 ミニョンが声をかける間もなく、オクチョンはチマの裾を翻した。慌ててミニョンと申尚宮も後を追う。
 どこをどのようにして殿舎まで帰ったのか判らないほど、動転していた。就善堂に戻るなり、オクチョンは居室に駆け込んだ。
 座椅子の背後にはオクチョン好みの華やかな衝立が置かれている。図画署の一流の絵師が描いた蓮の花だ。極彩色で描かれた蓮の花に、蒼い蝶が止まっている。粛宗が数年前のオクチョンの誕生祝いに贈ってくれたものだ。
 座椅子の前の文机には書きかけの写経がある。散策に出る前まで写経をしていたので、そのままにしていたのだ。オクチョンは硯から筆を取り上げ、力任せに衝立に走らせた。
 美しい蓮が見る間に墨の色に隠れてゆく。
 宝物のように大切にしていた衝立が今は見るのもいとわしい。オクチョンにこんなものを贈りながら、あの男は心の底では離別したはずの前妻に未練たらたらで、あの忌々しい女を呼び戻す算段をしていたのだ!
「禧嬪さま」
 声をかけて入ってきたミニョンが絶句した。
「オクチョン、何をしているの! あんなに大切にしていたのに」
 けれど、オクチョンは振り向かなかった。泣きじゃくりながら、狂ったように筆を動かし美しい蓮の花を絶望の支配する夜の色に染めていく。
 最後に蝶の部分だけが残った。蝶も塗りつぶそうとして、何故か逡巡が生じた。ミニョンがいつしか傍らに座っている。
「もう、良いでしょう。気が済んだなら、そろそろ止めた方が良い」
 ミニョンが優しく言う。まるで幼子を諭すような口調だ。今の私はミニョンがそこまで気を遣うほど、普通ではないのだろう。
 オクチョンは素直に筆をミニョンに預けた。
 茫然と闇に隠れた蓮花を見つめる。すべては自分がやったことなのに、信じられない。
 今の我が身は何をしでかすか判らない。オクチョンは自分が自分で恐ろしかった。改めて自分のなりを見やる。豪華ではあるが、ひと月前まで纏っていた王妃のみに許される衣装ではない。
 ぼんやりと先刻の光景を思い出した。池辺をスンと寄り添って歩いていた王妃は当然ながら、王妃の正装だった。ついひと月前まで、あの衣装はオクチョンにだけ許されたものだったのだ。それを、あの女が舞い戻ってきてオクチョンから奪い取った。
 もう、王妃でない我が身は鳳簪を髪に飾ることは許されない。
―許せない。
 オクチョンは拳が白くなるほど握りしめた。私から何もかも奪ったあの女が憎い。
 オクチョンは再び筆を握ると、今度はためらいなく残った一匹の蝶も墨で消した。スンから贈られた大切な衝立は今や見るも無惨に真っ黒だ。傍らでミニョンが痛ましげにオクチョンを見ているのにも気づかないほど、オクチョンは嫉妬と絶望に囚われていた。

 オクチョンが就善堂に駆け戻ってきたのと同じ時刻、世子ユンは東宮殿から母の住まいに向かっていた。後ろにはお付きの尚宮や内官、女官たちが大勢ついている。
 就善堂が見える場所まで来た時、向こうから母が走ってきた。あの道は庭園に続いている。今日は天気が良いから、母は庭に出ていたのだろうと思い、ユンは声をかけようとした。
 しかし、母はユンに気づきもせず、道を折れ就善堂に向かって走っていった。
―母上は、どうなさったのだろう。
 小さなユンは首を傾げる。いつもなら真っ先にユンに気づいて、抱きしめてくれるのに。
 ユンは母が大好きだ。母に抱きしめられた時、ふんわりと良い匂いがするのも好きだった。ユンが学問をして難しいことを憶えれば、母はとても嬉しそうで褒めてくれる。だから、いつも学問には身を入れている。母を歓ばせるためなら、空の月でも飛んでいって手に入れたいとさえ思う。
 いつか母にそう言ったら、母は嬉しげに笑った。
―まあ、世子。でも、お空の月を手に入れることはできないのですよ。
 と言った。ユンはむくれて
―母上、私はもう幼子ではありません。月が手に入らぬことくらいは存じております。私はただ母上に歓んでいただくためには何でもしたいという決意のほどを述べたのです。
 と、いっぱしのことを言った。それを聞いたミニョンと申尚宮が大笑いしているのを見て、ユンは余計に膨れた。
―ミニョンも申尚宮も私を赤児扱いしているのだな。