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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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 申尚宮の言葉を受けて、ミニョンは重々しく頷いた。
「当然です。見つかれば中殿さまだけではない、私たちも生命はありません。万全には万全を期しました」
 当日の夜、中宮殿の床下に二体の人型を置いたのはミニョンだった。彼女は信頼できる腹心の若い女官一人を連れていっただけだ。
 申尚宮はやや表情を緩め、オクチョンを見た。
「いずれにせよ、殿下が事の真相を既にご存じなのは間違いないものと思われます」
 オクチョンのは、サッと身体中の血の気が引いた。
 だが、と、儚い一縷の希望的観測が浮かぶ。もしスンがすべてを知っているなら、オクチョンをそのままにしておくはずはない。いかに優しい彼だとて、すぐに真実を明るみにし、オクチョンの罪を問うだろう。だとすれば、スンが真実を知っているというのは、あくまでも申尚宮の杞憂に過ぎないのかもしれない。
 その一方で、真逆の可能性も十分にあり得るのも承知していた。
 スンがこんな残酷なことをしたのは今でも信じられない。だが、すべてを知っているとすれば、こんな仕打ちをした理由にはなるような気がした。
 この時点で、オクチョンの犯した罪はまだ明るみになってはおらず、スンがすべてを知っているのかどうか判らなかった。判らないだけに、何故、こんなことになったのか、オクチョンはスンの心を測りかねたのだ。
 西人派はこれを好機とばかりに、一挙に勢いづいた。粛宗は大がかりな?換局?を行った。つまり、朝廷の人事を刷新し、政局の転換を図ったのである。その主立った出来事が先に廃位された仁顕王后の復位であり、王妃だった張氏の降格だった。先の仁顕王后廃位の際の?己巳換局(キサファングク)?に対し、今回の復位に伴う政局の転換を?甲戌(カプスルファングク)?と呼ぶ。
 この相次ぐ政局の転換によって、粛宗はオクチョンを擁する南人派の台頭を抑え、王権の拡大の実現を図ったのであった。旗頭に戴いたオクチョンの降格をきっかけに、南人の勢力は朝廷から一掃され、代わって再び西人が権力を握ることになる。
 宮殿の桜が散る頃、仁顕王后が謹慎生活を送っていた実家から宮殿に戻った。実に四年ぶりの帰還である。仁顕王后の優しい人柄を忘れず、慕い続けていた女官たちは皆、地面に伏して嬉し涙に暮れた。四年前、王妃が出てゆくときに流した涙は哀しみによるものであったが、今度は同じ涙でも違う。
 粛宗は四年ぶりに戻ってきた妻を、中宮殿の前で出迎えた。
 王妃は、謹慎中は白一色のチマチョゴリで過ごしていたが、帰還するに当たり、王妃の正装に戻っている。結い上げた黒髪にも王妃のみに許される鳳簪が燦めいていた。
 王妃の一団は十数人に及ぶ女官たちを従え、ゆっくりと中宮殿に向かってきた。粛宗は王妃の姿が見えるやいなや、妻に向かって歩き出し、途中からは小走りになった。
「中殿」
 様々な想いが粛宗の胸を通り過ぎた。自らが廃位し追放した妻にどのような表情をして相対せば良いのか。無実の罪でありながら、四年もの間、辛い目に遭わせた。いささか罰の悪い想いもあった。しかし、だからこそ、せめて戻ってきた王妃をここで出迎えようと王妃の乗った輿が実家を出たという報せを受けたときから、ずっとここで待っていたのだ。
「ただ今、戻りました」
 王妃は四年前と変わっていなかった。白皙のたおやかな美貌に、花のような笑みをひろげる。
―こんな残酷な仕打ちをした男を笑顔で迎えてくれるのか。
 四年前にあった出来事などなかったかのような笑顔に、粛宗の胸に熱いものがこみ上げた。
「お帰り」
 泣くまいと思っても、涙が滲む。粛宗は自ら妻に近づき、力の限り抱きしめた。
「許してくれ、私が愚かであった」
 王妃も涙声だった。
「いいえ、いいえ、こうしてまた、お会いできただけで私は嬉しうございます」
「さぞ辛い日々であったろう。よくぞ耐えてくれた。私を恨んだろうな」
 粛宗の心からの労りに、王妃は涙ぐんだ眼で見上げた。
「恨むなど、考えたこともありません。ずっと殿下の御身がお健やかであることを祈っていました」
「私は、そなたにそのように思って貰う資格のない男だ」
 王は四年ぶりに再会した妻をかき抱き、男泣きに泣いた。
 王妃の背後には、中宮殿の尚宮がひっそりと佇んでいる。四年の王妃の不遇の日々をずっと側で支え続けた忠義の者だ。王に抱かれてすすり泣く王妃の後ろで、尚宮もまたしきりに流れる涙を拭っていた。
 その夜、早速、中宮殿には王のお渡りがあった。
 夫婦二人きりの寝室で、粛宗と王妃は向かい合い、しばらく話に興じた。顔を見なかった四年の間に起こったことが話題の中心となったのは言うまでもない。王妃は何でもないことのように語ったが、王妃が自ら土を耕し野菜を収穫した話をした時、粛宗は泣いた。
「済まぬ、そなたには本当にどう詫びて良いか判らない」
 王妃は微笑んだ。
「殿下、あのようなことがなければ、自分で土を耕すということなど生涯経験できませんでした。農民というのは、このようなことをして日々の糧を得ているのだと身をもって学んだのです。それに、自分が植えた苗を世話し、日々育ちゆくのを見守るのも愉しいものでした。私には子がおりませんゆえ、何やら子を育てているような心持ちになれました」
「中殿」
 粛宗は言葉を詰まらせた。
 この女は強い。風が吹けば倒れそうな、かよわい花なのに、どんな逆風にも負けない強さを秘めている。粛宗は改めて王妃の素顔を見たような気がした。
「私は、そなたに嫌われても仕方ないことをした」
 申し訳なさで一杯の想いを告げると、王妃は首を振った。
「殿下を嫌いになれるなら、とっくにそうしていました。でも、できませんでした」
 更に、はにかむような笑みを見せ、王妃は頬を染めた。
「お逢いしたかった」
「可愛いことを言ってくれる」
 粛宗は王妃を引き寄せた。抱きしめられるままに王妃は王の逞しい胸板に身を預ける。
 抱きしめた王妃のやわらかな身体からは、かすかに蓮の花のような得も言われぬ香りがした。
 粛宗は小さく笑った。
「だが、私をあまり煽るな。何故か今宵は、そなたと初めて結ばれたときよりも心が逸っているのだ」
 直裁な男心を告げられ、王妃はますます頬に朱を散らす。こういう初心なところは、やはり少しも変わってはいないようだ。
 だが、確かに王妃は変わった。嫁いできたばかりの頃は少し力を込めて触れただけで壊れそうなガラス細工のような少女だった。それが今、臈長けた大人の女となって彼の前に再び帰ってきたのだ。
 長い忍従生活でやつれてはいるものの、かえって清楚な美貌に凄艶さが加わって男心をそそる。
 粛宗は王妃の顎を優しく持ち上げると、そっと労るように唇を重ねた。

 再び手に取り戻した王妃を粛宗は熱愛した。長らく無人であった中宮殿は活気を取り戻し、女官たちの明るい笑い声が聞こえるようになった。裏腹に、オクチョンの住まう就善堂はどこか憂愁に閉ざされがちになった。
主人のオクチョンからして塞ぎ込み、居室に引きこもる日々が続いた。
 王妃を寵愛する一方で、粛宗はまたオクチョンとの関係を修復したいと願っていたのも事実だ。
―噂ばかりを当てにしてはならぬ。