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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「人の心は策を弄して手に入れるものではない。物でも心でも、欲しいなら本気で相手に対するべきだ。少なくとも、私はそのように考えている。そなたは最初から西人の力を利用して私に近づいた。仮にそなたが左相から寄越された間者であったとしても、そなた自身が捨て身でぶつかってきたならば、私の心も動いたかもしれぬ。さりながら、そなたは二度とも左相を利用した。その時点で、私はもう、そなたを好きにはなれない」
 粛宗が出ていった後、ファヨンは魂を取られたように虚ろな視線を漂わせていた。
―次はないと思え。
 これ以上、残酷な科白があるだろうか。まるで手込めのように何度も抱いておきながら、事が終われば、この科白!
 これほどの恥辱はなかった。ファヨンのような下層民として生まれた女は、使えるものは何でも使って欲しいものを手に入れるしかない。生まれながらの王として決められた道を歩いてきた粛宗とは違う。
 だからこそ、ファヨンは左議政を利用した。けれど、その底には紛れもなく粛宗への恋心があった。そう、粛宗はファヨンが初めて恋した男だったのだ。好きな男だから、抱かれる覚悟もできた。
 なのに、粛宗はファヨンのそんな純粋な恋心、女としての矜持さえ粉々に打ち砕いた。
 ファヨンの白いすべらかな頬を涙が流れ落ちた。
 泣くものか。歯を食いしばる。
 そういえば、いつかファヨンを指導した妓生上がりの女間諜が言っていたっけ。
―男に本気になるんじゃないよ。泣きを見るのは女の方だからね。
 あれは恐らく、世間一般の男ではなく、任務を遂行する上での―標的にする男に限定されていた言葉だったのだろう。
 ファヨンは、まんまと禁忌を犯してしまったわけだ。密偵としては失格だ。
 これほどの恥辱を味合わされ、黙っていられるはずがない。ファヨンは唇を噛みしめた。
―あくまでも私を無視するというなら、あなたの最も大切な女をこの世から抹殺してやる。
 昨夜、愚かにもファヨンは、あの女を思い出し、あの女の雰囲気にできるだけ近づけるように支度を調えた。粛宗の好みは、ああいう清楚な中にそこはかとなき色香を感じる美貌なのかと化粧までチャン・オクチョンを真似てみたのだ。
 紅の色ですら、オクチョンがいつも好んで引いている珊瑚色にした。ファヨンはまるで汚いものがついているかのように、無造作に唇を拭った。もっとも、丹念に塗った紅も執拗なキスでとうに?がれてしまっているだろうけれど。
 男というのは、つくづく不思議な生きものだ。あれほどまでに何度も組み敷いておきながら、平然と冷酷な科白を口に乗せる。男と女は正反対で、男は情愛などなくても女を抱けるというが、あれは本当のことらしい。
 だが、生憎、ファヨンはこのまま身体だけ好き放題に蹂躙されて、泣いて耐えるような殊勝な女ではない。
 憎むなら、私を憎むが良い。いない存在として無視されるより、憎まれる方がよほど良い。 
 ここにもまた、哀しい恋をした女がいた。愛されぬと知りながら、なお男への恋しさに身を灼き、愛されぬがゆえになおいっそう愛されたいと願う女心だった。
 だが、運命とは皮肉なものだ。この?最後の一夜?はファヨン自身が想像さえしていなった運命を彼女にもたらすことになる。
 この数ヶ月後、
―崔尚宮、ご懐妊。
 の報が後宮中を揺るがすことになった。
 チェ・ファヨンは粛宗の御子を宿した功績により、特別尚宮から淑媛に進む。養父ク・ソッキ戴く西人派の積年の望みを叶え、見事に王の子を懐妊したのである。今やファヨンは一介の承恩尚宮ではなく、れきとした王族の仲間入りを果たしたのだ。

 そして、運命の激変に見舞われたのはファヨンだけではなかった。ファヨンの懐妊を受けた西人がついに立ち上がった。
 崔淑媛の懐妊が公表された翌月十二日、王妃チャン・オクチョンに対し、?降格?の王命が下されたのである。
 それは、あまりに突然のことで、就善堂では一時、オクチョンに反感を持つ西人派がまた埒もない質の悪い冗談を流したのだとさえ囁いた。
 しかし、王命を伝達する官吏が正式に遣わされ、これは冗談などではなく紛れもない現実なのだと突きつけられた。
 運命のその日、オクチョンは、突然すぎる事態に悪い夢を見ているようで、心がついてゆかなかった。
 王妃の衣装を脱いで着替えてさえ、まだこれは夢なのだ、眼を閉じて開ければ、すべては今までどおりなのだと思えてならない。
―スンが私から何もかも取り上げるなんて、そんな仕打ちをするはずがない。
 自分は世子であり、彼のただ一人の子を産んだ女なのだ。その自分に対して、スンがここまで無情なふるまいをするわけがない。
 だが、現実は無情だった。オクチョンは王妃としてのすべての待遇を剥奪され、嬪に降格された。更に彼女を打ちのめす王命が続いて下った。
―仁顕王后を復位させるものとする。
 オクチョンの降格と前王妃復位の報せが後宮中を駆け巡ったその時、オクチョンは屈辱に打ち震えた。
 幸か不幸か、オクチョンは王妃になっても中宮殿に移り住むことはなかった。ひとえにオクチョンが前王妃の気配が残る中宮殿を嫌ったからだ。ゆえに降格されても、住まいを移る必要がないのは皮肉なことだった。
 前王妃復位の報を受け、早くも中宮殿は色めき立ち、女主人の帰還を待ちわびる女官たちによって磨き立てられているという。そんな噂を聞くにつけ、オクチョンは大声で叫んで、手当たり次第に物を壊してしまいたい衝動と闘わねばならなかった。
 西人派ばかりではない。後宮には、気高く慈悲深かった前王妃を慕う女官たちはまだまだ多く残っていた。そんな者たちは就善堂の方を見やり、憎々しげに
―身の程知らずの妖婦に天の制裁が下された。
 と、笑い転げているそうだ。
 オクチョンは鬱々と居室に引きこもる日々が続いた。ミニョンは傍らで粛宗の無情を嘆き恨んだ。
「殿下は、あんまりだわ。オクチョンが何をしたというの。世子さまの母君であるオクチョンに何故、ここまでの残酷な仕打ちをするの!」
 オクチョン本人よりも声を上げて泣きじゃくるその姿に、かえってオクチョンは冷静でいられた。
 身も世もなく嘆くミニョンの側で、申尚宮はといえば、オクチョンと同様、落ち着いていた。
「私が思いますに」
 申尚宮は声を潜めてオクチョンを見つめる。オクチョンは頷いて信頼する申尚宮の次の言葉を待った。
「殿下は例のことをご存じなのではないでしょうか、中殿さま」
 言い終え、申尚宮がハッとした表情になる。
「申し訳ございません」
 申尚宮にしてみれば、既に王命によって降格されたオクチョンをどのように呼ぶべきか、思案に迷うところのはずだ。
 だが、オクチョンは呼び方などに拘っているゆとりはなかった。
「例のこととは、まさか」
 語尾が戦慄く。傍らのミニョンは今にも倒れそうなほど蒼褪めていた。この場にいる三人ともが?例のこと?というのが何か身に染みて知っている。
 申尚宮がいっそう声を低めた。
「中宮殿の床下で見つかった呪いの人型です」
「―」
 オクチョンはミニョンちと素早く眼交ぜした。申尚宮がキッとした様子でミニョンを見た。
「そなた、あの夜、よもや他の者に姿を見られてはおるまいな?」