炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
退席したオクチョンは、よもやこの無節操な宴が自分の首を絞めることになるとは、その時、予想だにしていなかった。
この翌日、左議政ク・ソッキが大殿で執務中の粛宗を訪ねた。ホ内官がおとないを告げるとほどなく、本人が入室してきた。
彼は執務机に座った粛宗に向かい、深々と頭を下げる。
「お忙しい中、お時間を戴いて申し訳ございません」
「いや。ひと息入れようと思っていたところだ。気にしないでくれ」
粛宗は立ち上がり、片隅の丸机を指した。ソッキは心得たように一礼して椅子に座る。粛宗もその向かいに座った。
「昨日の宴のことをお聞きになりましたか?」
「宴?」
ソッキの言葉に、粛宗は眼をわずかに見開いた。ソッキがしたり顔で言う。
「就善堂で昨日、世子邸下のご生誕祝いが賑やかに行われたとか」
「―」
粛宗は黙り込んだ。その静謐な表情から、王が何を考えているのかは判らない。
ややあって粛宗が沈黙を破った。
「わざわざ世子の誕生祝いについて何か言いにきたとでも?」
「いえ、世子邸下は現在、殿下のただ一人の御子であり、この国の大切な世継ぎの君です。その健やかなご成長を言祝ぐ気持ちは、南人、西人の別はございません。我々臣下としては当然のことにて」
粛宗が冷えた声音で断じた。
「持って回った言い方は止せ。何が言いたくて参ったのだ」
無駄話はこれ以上、聞かないと暗に王の態度が告げている。ソッキは、これ見よがしに溜息をついた。
「やはり、ご存じではないのですね。まあ、当然ではありますが、実に嘆かわしいことです」
「いい加減にしろ。私は忙しい。無駄話をしにきたのなら、帰れ」
「昨日、就善堂に呼ばれたのは南人の廷臣たちだけではなかったとか。中殿さまの兄チャン・ヒジェが行きつけの見世からあまたの妓生を呼んだと聞き及びました」
粛宗は気のない様子で言った。
「存じておる」
ソッキは、大仰すぎるほどに顔をしかめた。
「さようでございましたか。さりながら、ちと行き過ぎではございませんか」
「王族主催の宴であれば、宮殿内といえども妓生を呼ぶことはある。特に咎めることもなかろう」
王は、この期に及んでもまだ王妃を庇おうとしている。表向きに粛宗の心は王妃から離れたと言われているが、やはり、王はまだ王妃に心を残しているということだ。老獪なソッキは、王の真意をすぐに見抜いた。
「確かに殿下の仰せはごもっともではあります。されど、問題は、いまだご幼少の世子邸下がご臨席の宴にいかがわしき者どもが集ったということではないでしょうか。聞けば、昨日の宴は見るどころか聞くのもはばかられるような乱痴気騒ぎであったとか。その、畏れながら、乱交まがいのことまであったとか聞いています」
「―」
粛宗の顔色がはっきりと変わった。
「それは真か?」
幼い世子の前で妓生に鼻の下を伸ばす男たちがいるだけでも許し難いのに、性交にまで及んだのか?
粛宗は信じられない想いであった。
「いや、幾ら何でも、それはなかろう。中殿がそのようなことを許すはずがない」
現実として、就善堂では乱交など行われたわけではない。しかし、ク・ソッキの悪意ある讒言はこの瞬間、間違いなく粛宗の心を揺さぶった。
「私もそのように信じたいところではありますが、信頼できる筋からの情報ではありますし、また、その場を見た者もいるそうですゆえ」
ソッキはわざとらしく咳払いした。
「いや、真にご無礼を申し上げました。今の言葉はお忘れ下さい。仮にも、この朝鮮の国母たるお方のご威信を傷つけるような物言いを致しました。臣として真に面目なき次第にございます。ただ、殿下。中殿さまの御事はともかく、あの兄のふるまいだけは見過ごしにはできませんぞ」
「チャン・ヒジェのことか」
ここで、ソッキはまたもわざとらしく低声になった。
「世子邸下のお祝いの宴で、あやつめが世子さまを?殿下?とお呼びしていたそうです」
粛宗は思わず眉がピクリと動くのを辛うじて堪えた。
「あれは酒に弱い。大方、酔いが回って口にしただけであろう。酒の上のふるまいをいちいち気にする必要はない」
ソッキは真顔で首を振った。
「私めは、そのようには思いませんな。たとい酔っていたからといって、許されて良いことと、そうでないことがあります。この国で?殿下?と我々がお呼びするのは我らが国王殿下だけのはずではありませんか。それを早くも王の伯父気取りで世子さまを?殿下?とお呼びするのは僭越の極み、ひいては殿下への不敬罪にも当たります」
ソッキはグッと身を乗り出し、粛宗はその勢いに気圧され、危うくのけぞるところだった。
「穿った見方をすれば、まだ王位にも就いていないお方を殿下とお呼びするのは、現在、玉座にあられる国王殿下に対して二心ある証、叛意ありとも考えられますぞ」
「勘繰りすぎだ、左相。正直、あの者は利口とはいえない。ゆえに、酒に酔った勢いで口走ったにすぎないのは判っている」
粛宗は言いながら、ほろ苦いものが涌き上がるのを自覚した。チャン・ヒジェ、関係だけからいえば、粛宗の義兄に当たる男である。国王の外戚、王妃の兄であるヒジェは世子の伯父だ。しっかりとした後ろ盾を持たないオクチョンから生まれた世子は、いまだに確固たる後見を得ていない。
そんな世子にとって唯一、頼りになるのは、この伯父である。そんなこともあって、粛宗はこの男にそれなりの官職を与えていた。だが、ヒジェ本人は王の外戚の立場を誇示し、オクチョンの兄であるのを利用して甘い汁を吸うことしか考えていない。
スクチョン自身、好きか嫌いかといえば嫌いだ。義母のユン氏は控えめで賢明であり、好もしいと感じていたが、この義兄と積極的に関わることは避けている。
ソッキは更に信じられないことを言ってのけた。
「まあ、中殿さまの兄だけなら、殿下の仰せのごとく笑って見過ごしにもできるのですが」
ここで更に声を低め、ソッキは粛宗の反応を窺うようにひと息に言った。
「右議政がヒジェに迎合するかのように世子さまを殿下とお呼びしていたというのが私、どうにも我慢ならないのですよ」
「右相が?」
粛宗は愕きに眼を見開いた。右議政キム・ソンギ(金孫基)は南人の筆頭である。議政府の三丞承の中の一人、左議政ク・ソッキに次ぐ朝廷の大物なのだ。
「中殿さまもそれを諫められるどころか、側で満更でもないご様子で眺められていたそうです。このようなことが許されて良いのでしょうか、殿下」
「―信じられぬ」
呟いた王に、ソッキは恭しく言った。
「これは嘘ではございません。何なら、殿下ご自身が中殿さまにお訊ねになってはいかがでしょう」
これには粛宗は無言だった。揺らぐ王の心にとどめを刺すように、ソッキが言った。
「殿下、これは私利私欲から申し上げるものではないことをまず、ご理解戴きたいのですが」
粛宗がソッキを見た。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ