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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「母上は父上にお会いになった時、いつも哀しそうなお顔をなさっています」
 その何気ない言葉はオクチョンの胸を抉った。五歳の幼児ながら、ユンは聡い子だ。両親の仲が冷淡なのに気づいている。
「ユン」
 オクチョンはしゃがみ込み、息子の眼線の高さになった。
「そのようなことはありません。国王殿下はご立派なこの国の王でおわします。母は父上のお顔を見るのがとても嬉しいのですから、哀しい顔をするはずがないでしょう」
 そう、あんなに冷たくされるどころか、道端の石ころを見るように気のないそぶりをされても、オクチョンはまだスンを愛している。
 我ながら呆れるほどに、哀しくなるほどに。
「さあ、夕刻で風が冷たくなってきました。そろそろ就善堂に戻りましょう。ミニョンが世子のために薬菓を作ってくれているのですよ」
 オクチョンはユンの手を引き、就善堂に向かって歩き始めた。十月に入り、そろそろ冷たくなってきた夕方の風がオクチョンの心にまで吹き込むようだった。
 思わずギュッとユンの小さな手を握る自らの手に力を込める。ユンが愕いたように顔を上げ、つぶらな瞳でオクチョンを見上げる。息子の不安げな視線を見て、オクチョンはユンを安心させるように笑顔を作った。
 今は、この手の中の小さな温もりだけがオクチョンの冷えた心を幾ばくかでも温めてくれるようだった。、
 その半月後、就善堂ではユンの五歳の誕生日の祝いが盛大に催された。企画したのはもちろん、王妃にして生母のオクチョンである。
 祝宴には所狭しとご馳走が並び、オクチョンを支持示する南人派の人々が打ち揃った。いずれも当代の朝廷を代表する錚々たる顔ぶれ、大臣や高官ばかりである。彼等は皆、オクチョンが大王大妃の庇護を受けていた時代からオクチョン側に立ち、王妃冊立にも陽になり陰になり力になってくれた面々であった。
 前仁顕王妃が廃位されるまで、朝廷を二分していた二大勢力の中、南人はどちらかといえば仁顕王妃を推す西人派に圧倒されていた。しかし、仁顕王妃が廃位されたことにより、オクチョンが中殿に直り、朝廷の情勢も一新した。それまで圧され気味だった南人派が息を吹き返し、代わって西人派が衰退したのだ。各自が戴いている旗頭の命運が、それぞれの党派の運命に直結している。
 オクチョンが立后する直前、西人派の筆頭左議政ク・ソッキが崔ファヨンを養女とした。これにより、西人は懐妊の見込みのない仁顕王妃を見限り、旗頭を崔ファヨンにすり替えることを明らかにしたのだ。
 しかし、残念なことに、ク・ソッキの目論見は今のところ、成功しているとは言い難い。粛宗は西人が後宮に送り込んだ崔ファヨンには見向きもせず、新たに召し上げたキム・セリョンだけを寵愛している。
 セリョンは既に承恩尚宮に任じられているが、幸か不幸か、この女官はかつて粛宗との間の御子を流産したのがきっかけで子を孕めなくなっている。実は粛宗の子だといわれているのはセリョンの元婚約者の子なのだが、対外的にその事実は公表されていない。
 いかに粛宗の寵愛が厚かろうと、セリョンからこの先、御子が生まれる可能性はない。そのため、西人も南人もセリョンの存在はそれほど重要視しておらず、静観の構えである。
 目下、粛宗の血を引くのは王妃チャン・オクチョンの産んだ世子ユンのみであった。
 それもあってか、南人の鼻息は荒い。何しろ、南人は現王のただ一人の息子であり世継ぎたる王子を擁しているのだ。世子が手中にある限り、南人のゆく末も安泰かに思えた。
 無礼講の祝宴は妓生を呼んでのどんちゃん騒ぎに代わり、挙げ句には申尚宮が気を利かせて幼い世子をその場から連れ出したほど、風紀の乱れたものになった。
 半裸の妓生たちに両脇からしなだれかかられ、鼻の下を伸ばす両班たち。彼等をはるか上座から眺め降ろし、オクチョンは終始笑みを絶やさなかった。
 本当は、こんな乱れた場所などからは一刻も早く逃げ出したい。だが、この愚かな男どもが可愛いユンの味方なのだから、宴の主催者たるオクチョンがこの場から姿を消すわけにはゆかない。
「中殿さま」
 せかせかとした足取りでやってきたのは、オクチョンの兄チャン・ヒジェである。これでも、政界では要職についている男だが、いかにせん、女好きの酒好きで、無能なことはこの上ない。兄でなければ、拘わりたくない類の男である。
「どうされましたか、兄上(オラボニ)」
 オクチョンは内心の嫌悪はおくびにも出さず、鷹揚に構えた。
「ま、中殿さまも一献」
 と、酒器を差し出すのに、オクチョンは眉をひそめた。
「兄上、今日の宴の本来の目的をお忘れでは?」
 ユンの後ろ盾となってくれる南人の高官たちの労をねぎらうものであったはず、と、暗に警告する。しかし、ヒジェは呵々大笑した。
「何の、ご案じめされますな。皆、愉しんでおりますよ」
 ヒジェは酒好きの男ではあるが、強くはない。すぐに顔に出る。今も赤ら顔が余計に紅くなっている。酒臭い息をまき散らしながら喋るので、オクチョンは吐き気さえする。
 オクチョンは広い室を見回した。長机には贅をこらしたご馳走が並び、男たちは皆、きれいどころに囲まれてご機嫌である。確かに、愉しんでいるには違いない。
「中殿さまは何のご心配もなさる必要はない。この兄が中殿さまのお味方についている限り、怖いものはないですからね」
―兄上がいるから、余計に心配なのですよ。
 と、本心を言ってやりたい。
 この兄は昔からロクなことをしでかした試しがない。王妃の兄ということを笠に着て、色町でもやりたい放題のしたい放題、西人派の重鎮である高官と売れっ妓の妓生をあい争い、大事になったことさえある。そのときも、兄の起こした不祥事の尻ぬぐいをしたのはオクチョンだ。あまつさえ、
―妖婦張氏の一族は兄までもが天を怖れぬ成り上がり者だ。
 と、結局、オクチョンまで悪く言われた。
 だが、ヒジェの言うとおり、オクチョンにとって真の味方といえるのは、実はこの頼りない兄だけだ。南人派が後ろ盾についているとはいえ、彼等はオクチョン側についている方が甘い汁が吸えるからという理由だけしかない。
 もしオクチョンが不利な立場になれば、すぐに見限るだろう。今のところ、彼等がオクチョンについているのは、ひとえに世子の母であるという一点だけだ。粛宗の寵愛が既に王妃にないのは誰の眼にも明らかなのだから。
「何といっても、中殿さまは殿下のご寵愛も厚く、一の御方ではありませんか」
 兄の異常に浮かれた声を聞きながら、オクチョンは余計に心が冷えてゆく。最早、王の愛を妹が失っているのは明白だというのに、どこまで、この兄は愚かなのか。何一つ、現実が見えていない。
「この兄がいる限り―」
 そこでヒジェの言葉は途切れた。オクチョンの眼前で、兄はだらしなく正体を失って眠り込んでしまった。オクチョンは顔をしかめ、立ち上がった。
 これ以上は、いかにしても無理だ。この乱痴気騒ぎを眺めていれば、本当に吐いてしまうだろう。仮にも王妃として、そんな無様な様は見せられない。
 とはいえ、妓生の身体を弄るのに夢中になっている男たちは、王妃がその場を退席したのに気づかなかったのである。