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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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第四話「天空の蝶」

  絶対の刃先

 いつもと変わりない刻限にスンが姿を見せると、既に顔を見慣れた女官が一瞬、笑顔になった。
 外は雨が降っている。もう、丸三日も降り続いた雨は見る人の気持ちまで、今日の漢陽(ハニャン)の空のように灰色に塗り込めてしまうようだ。
 スンこと粛宗は小さな溜息を吐き、降り止まぬ雨を眺めつつ、呟いた。
「中殿(チュンジョン)が王宮を去って、一年か。月日の経つのは速いものだな」
 そう、丁度今から一年ほど前、彼の妻である王妃はひっそりと罪人のように王宮から去っていった。いや、公的にも彼女は、王の怒りに触れて廃位された?罪人?だ。そして、妻から怒りに任せて王妃の位も何もかも取り上げて追放したのは他ならぬ彼自身であった。
 粛宗は小さくかぶりを振る。忘れようとしても忘れられるものではない。王妃が去ったあの日も天は王の無情を恨み、薄幸の女人を悼むがごとく雨が降っていた。
 王妃を廃したのは彼自身だ。たとえ見送りくらいはしてやりたいという想いがあれども、衆目の手前、できるはずもなかった。
 粛宗は何故か、王妃が去ってからの日々の方が彼女を思い出す時間が多くなった。新王妃に冊立したオクチョンは中宮殿を嫌った。王妃は中宮殿に住まいするのが当然なのに、今まで起居していた就善堂(チソンダン)から動こうとしない。
 従って、いまだに中宮殿は無人のままだ。今日も雨の中、住む主人(あるじ)を失った建物はわびしげに佇んでいる。粛宗は小首を傾げ、女官を見た。彼女はいつも中宮殿の扉前に立っている。たとえ女主人が不在でも、殿舎そのものは毎日、きちんと掃除がされ空気も入れ換えられている。
 それでも、王妃が暮らしていた頃のように活気というか生気がないのは、やはり無人になってしまったせいだろう。この若い女官は、中宮殿の留守居役の尚宮下で働く者だ。王妃がいた頃は顔を見た記憶がないから、大方、留守居役として派遣された老尚宮と共に新たに配属されたに相違なかった。
 粛宗が?おや?というように眉を動かした。その視線がきっちりと閉ざされた扉前に向けられる。扉前からは庭園へと続く階段がある。その階(きざはし)の最上段には、いつも前王妃が愛用していた靴が置いてあった。
―何故、中殿の靴をこのような場所に置いているのだ?
 初めて見た時、不思議に思った粛宗は訊ねた。すると、女官は恭しく応えたものだ。
―この靴は中殿さまが後宮を去られる前、私に賜ったものにございます。
 ある日、庭園を散策していた王妃が急な雨に降られて難儀したという。お付きの尚宮や女官と共に慌てて中宮殿に戻る途中、たまたま、この女官と遭遇した。彼女は自分の粗末な傘を恐縮しつつ王妃に献上した。
―一つしかない傘を私に貸してくれては、そなた自身が濡れてしまおうに。
 王妃は躊躇したが、虚弱な我が身が雨に濡れてはまた倒れて周囲の者たちに余計な心労をかけると判っていた。だから、
―済まぬな。
 と、笑顔で傘を受け取った。
 大抵の身分のある女性なら、それで終わりだが、王妃はその女官の親切を忘れなかった。翌日、王妃自らが見立てたという絹の美しい靴が礼として女官に下賜されたという。
 中宮殿の留守居役は、正直、誰もが敬遠する閑職だった。だからこそ、もう引退も間近の年老いた尚宮が責任者となったのだ。しかし、この女官は自ら志願して留守居役になった。
 女官は、王妃がくれた靴を中宮殿の扉前に置いた。そうしていれば、あの優しい王妃がいつもここにいるような気がするからだ。
 そのように応えた女官の忠義に、粛宗は打たれた。
―中殿もそなたのような忠義の者がいて、まだしも救われるであろうな。
 以来、粛宗はほぼ毎日のように中宮殿に足を運ぶようになった。王妃の靴はいつも同じ場所にある。確かに彼もまた、そこに華やかな牡丹色の靴を見る度、王妃がここにいないのは何かの悪い夢ではないかと思うことがあった。
 王妃を廃したのは自分自身なのに、何とも矛盾していることだと我ながら思うけれど、それが粛宗の本心なのだ。怒りにまかせて廃位してしまった元妻でありながら、彼の心にはいまだに王妃の面影が消えることはない。
 今日も、いつもの場所に靴があるのかと思いきや、粛宗は眼を見開いた。いつもなら靴がある場所には大きな蓮の葉が置かれている。
「これは?」
 女官が微笑んだ。
「雨が降っては、中殿さまのお靴が濡れてしまいます、ゆえに、庭園の蓮の葉でお靴を隠しました」
「なるほど」
 粛宗は、ひっそりと淋しげな笑みを零した。
「確かに、靴が濡れては、この季節でも風邪を引く」
 嫁いできた幼い頃から身体の弱い妻だった。それゆえに、周囲の期待を一身に集めながら、懐妊できず、王妃という立場を守りきれなかった。
 いや、と、粛宗は首を振った。あの優しい女を守ってやらなかったのは己れ自身だ。たとえ子ができずとも、廃位などされなかった王妃は歴代王の後宮にはあまたいる。
 粛宗は笑顔で女官の労をねぎらった。女官が両開きの扉を開き、粛宗が中に入る。ほどなく扉が背後で閉まり、彼は磨き抜かれた廊下を進み、また扉を開いた。
 森厳とした静けさの満ちた室は、妻が暮らしていた場所である。彼は真っすぐ進み、居室の上座に置かれた座椅子(ポリヨ)に座った。背後には墨絵で描かれた蓮の花の衝立があり、眼の前には文机。  
 文机には先刻の女官が気を利かせたものか、小さな青磁の花器に淡い蒼に染まった一輪の紫陽花が挿してある。妻もかつてここに暮らしていた頃は、居室に花を飾っていた。いや、この殿舎の至る場所には常に季節の花が絶えず、居心地よく保たれていた。その雰囲気は訪れる者の心を包み込み癒し、妻の大らかな性格と通ずるものがあった。
 何もかも妻が暮らしていたときのままだ。
―殿下(チヨナー)。
 ふと耳に馴染んだ声がどこからか聞こえたような気がして、粛宗は弾かれたように振り返った。
 当然ながら、そこに妻がいるはずがなく、ただ、水底(みなそこ)のような沈黙が彼を取り巻いているばかりだ。
 粛宗はそのまま座椅子に座って、眼を瞑った。いかほどそのままで過ごしていたのか。
 結局、いつもと同じだ。かつて妻が暮らしていた室で何をするでもなく刻(とき)をやり過ごして、また帰ってゆく。立ち上がり、また廊下を歩いて元来た順路で戻る。今度は自分で扉を開けると、あの女官が飛び上がった。
「申し訳ございません。私ったら、気づかないで」
「いや、良いのだ」
 粛宗は笑った。
「何をしていたのだ?」
 いつもなら、廊下を辿ってきた王の足音にめざとく気づいて扉を開けてくれる女官である。何か考え事にでも耽っていたのかと何気なく訊ねれば、彼女も笑った。
「仁顕王后(イニョンワンフ)さまのお靴を眺めながら、王妃さまの御事を考えていたのです」
「中殿のことを?」
「はい」
 女官は頷いた。粛宗は背後の扉を少し開き、廊下に座った。依然として立ったままの女官を見上げ、自分の隣を軽く叩いた。女官は躊躇いながらも、少し間を開けて粛宗の傍らに並んで座る。
 二人はしばらく無言で雨を眺めた。最初に沈黙を破ったのは粛宗の方だった。
「私も中殿のことを考えていたよ」