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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「ごめんなさい。折角授かった赤ちゃんなのに、私また」
「気にするな。俺たちにはユンがいる。子は天の授かり物だという。きっと、今度の子も長くは生きられない宿命だったんだろう」
 スンは宥める口調で言い、額に汗で張り付いたオクチョンの髪をそっと払った。
「済まない。そなたには苦しい想いばかりさせてしまうな」
「いいえ、大好きな男の子どもだもの。三度もこの痛みと苦しみを経験できて、むしろ良かった。これで赤ちゃんが元気に生まれてくれば言うことなかったのに」
 スンは知らない。この子が亡くなったのは、私があの女の死を願ったからだ。お腹の子は本当なら、元気に生まれてくるはずだった。なのに、母である私が前王妃の死を願い、天は引き替えに我が子を奪い去ったのだ。
 こうなることを予め予想しても、私は前王妃の死を願い続けた。もし、このことをあなたが知れば、今度こそ、優しいあなたも私を見限ってしまいに違いない。
 あなたがいまだに心を残している前王妃を呪い、あまつさえ、己れの醜い野心を満たすために御子を見殺しにした。あなたは絶対に私を許してはくれないでしょう。
 でも、良いの。すべては、あなたを取り戻し、あなたの心を再び手に入れるためだから。だって、こうして、あなたはすぐに駆けつけくれた。
 私は、あなたさえいてくれれば、何も要らない。何を犠牲にしても、あなたが私だけを見つめてくれれば他に望むことはない。
 次の瞬間、ひときわ強い痛みが襲い、オクチョンは絶叫した。粛宗が顔色を変えて叫んだ。
「誰か、御医を呼べ。中殿が苦しんでいる」
 スン、スン、大好きなあなた。
 あなたが側にいてくれさえすれば、私はどんな犠牲を払っても、耐えられる―。
 あまりの痛みに、オクチョンの意識は真っ暗な闇に呑み込まれた。
 
 こうして、オクチョンは第二子に続いて、三番目の子も失った。だが、今回は前と異なり、オクチョンはいつまでも我が子を失った哀しみに浸り続けてはいなかった。
 出血が多すぎて一時は生命さえ危ぶまれたものの、流産後の肥立ちは順調だった。床上げを終えてからは以前にも増して華やかに装い、お気に入りの申尚宮とミニョンを連れて元気に庭園をそぞろ歩く姿が頻繁に見かけられた。
 そんな時、オクチョンは大概、世子の手を引いていた。続けて授かった下の二人の御子は育たなかったものの、幸いにも長子のユンはつつがなく生い立った。
 ユンは特に持病はなかったが、やはり身体が弱く、よく風邪を引いてはオクチョンを心配させた。オクチョンはユンを溺愛した。それは、自らの保身のためというより、もう自分の残されたのはこの子しかいないという必死な母心というものだった。
 前王妃は天の守護を受けているという。そんな人を自分は呪おうとしている。いわば、天意に刃向かおうとしているのだ。大それた所業の報いとして、二人の子を奪われた。この上、怖れるものなど何もない。我が生命さえ、惜しくはない。差し出せというなら差しだそう。けれど、この子だけは、世子だけはどうか守り給え。ユンだけは私から奪わないで欲しい。
 オクチョンは郊外の寺に多額の寄進をしたばかりか、自らもユンを伴い何度となく参詣た。それはすべてユンの無事安寧を願うためのものに相違なかった。
 二年の月日が飛ぶように過ぎ去った。ユンは五歳の誕生日を無事迎えることができた。ユンは、とても聡明な子だ。三歳のときには早くも専任の学問教師が付けられ、五歳になる前には?小学?を終え、?論語?をそらんじて粛宗の前で披露し、父王を歓ばせた。
 季節の変わり目には風邪を引き、数日寝込むことはあったが、大病もせず、五歳になった今は男の子らしく乗馬に興味を持っている。粛宗は時折、馬場で馬術をたしなむことがあり、たまにユンを前に乗せて馬乗りを愉しんだ。
「父上(アバママ)、父上、凄い。風になったようです」
 男の子にしては色白の頬を興奮に染め、ユンは?凄い?を何度も繰り返す。馬上の姿も凛々しい粛宗はそんな幼い息子を落とさないように抱きしめ、自在に手綱を操りながら馬場を風のように駆け抜けた。
 その日も、いつものように半刻ばかり王が乗馬を息子と共に愉しむ姿をオクチョンは馬場の片隅から見守った。
 粛宗は馬を止めると、まず息子を抱き上げ、傍らに控えるホ内官に渡した。まるで宝物を扱うような手つきは、粛宗がどれだけ息子を大切にしているか知れる。
「ホ内官、父上は凄いんだ。いつも風のように自在に馬を操られる」
 興奮して報告するユンは、ホ内官が母王妃の信頼する側近ミニョンの良人だと知っている。ユンが赤児の頃、襁褓を替え、あやしてくれたミニョンは、ユンにとっては親戚の伯母のようなものだ。?お馬さんごっこ?の馬になり背に負ぶってくれたホ内官はユンにとっては伯父のような感覚で、父粛宗に次いで憧れを抱く人物である。
「さようにございますね」
 ホ内官もまたユンを世子として丁重に立てつつも、甥か息子のように可愛がっている。
 大好きなホ内官に夢中で?父上は凄い?と粛宗賛美論を繰り返すユン。そんな息子を眺めつつ、オクチョンは粛宗に近づいた。
「殿下、馬術の後は喉がお乾きになったのではありませんか。就善堂にお立ち寄り下されば、お茶をお淹れ致します」
 皆の眼があるため、いつものように親しげにふるまえず、オクチョンは丁重にスンに話しかけた。だが、スンはわずかに視線を動かしただけで、オクチョンを見ようともしない。
 粛宗は返事もせず、オクチョンに背を向けて歩いてゆく。オクチョンはあまりの仕打ちに、茫然とその場に立ち尽くすしかない。
 スンと言葉さえまともに交わさなくなって、どれほどになるのか。顔を見ない日を数えるのももう止めた。自分があまりに惨めになるからだ。
 スンが優しさを見せてくれたのは二年前、オクチョンが三番めの子を流産したあの日が最後となった。最近では、キム・セリョンとかいう例の中宮殿の女官を寝所に召したという。ミニョンに堕胎薬を飲まされたセリョンは流産し、婚約中の恋人とは破談になった。その後も中宮殿の留守居番を務めており、粛宗との仲が特に急接近したという話も聞いていなかった。
 だが、今年の夏の終わり、粛宗がセリョンを大殿の寝所に招び、二人の仲はあの後も途切れることなく続いていたのだと人々は改めて知ったのである。
 オクチョンはといえば、どうしてもやり場のない怒りを爆発させることが多くなった。ほんの小さなことで女官を叱責し、その後でハッと我に返り反省するといった案配である。その度に自己嫌悪に陥るオクチョンを慰めるのは昔と変わらず、ミニョンの役目であった。
 遠ざかってゆくスンの背中を見送るオクチョンの耳をあどけない声が打つ。
「母上(オバママ)、母上」
 強く手を引かれ、オクチョンはハッとした。気が付けば、物言いたげなユンの視線とぶつかる。
「世子。どうかしましたか?」
 慌てて笑顔を取り繕っても、幼子は敏感にオクチョンの心を言い当てた。
「どうして、そんなに哀しそうなお顔をなさっているのですか」
 オクチョンは微笑んだ。
「母はそんなに哀しそうな顔をしていますか」
「はい」
 ユンは呟き、うつむいた。