炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
水面に浮かぶ極彩色の四阿に着くなり、へたりこむようにして座った。四阿の中には腰掛けられるように張り出した部分がある。ミニョンがすかさず持参した座布団を腰の部分に当ててくれた。
「中殿さま、やはり、ご無理なさらない方が良かったのではありませんか?」
ミニョンが不安げに訊くのに、オクチョンは微笑んだ。
「大丈夫よ。それに、皆が今日の蓮見を愉しみにしていたのに、私が行かないと言い出すのも気の毒だもの」
「中殿さまは、お優しすぎます。今は大切なお身体なのですから、私どもなどのことより、ご自身のお身体のことを考えて戴かなければ」
もう慣れっこになったミニョンのお小言である。傍らでは、申尚宮が扇を出して、オクチョンに涼しい風を送ってくれた。
「済まないわね、申尚宮」
微笑むと、申尚宮もゆったりと微笑み返してくる。
少し離れた蓮池のほとりでは、大勢の女官たちが群れて歓声を上げている。その嬉しげなはしゃぎ声を聞きながら、オクチョンは眼を閉じた。
やはり、多少の無理をしても来て良かったと思う。あんなに嬉しげな女官たちの声を聞けば、到底蓮見を止められるものではない。オクチョン自身、女官出身だから、その労働の過酷さを理解しているつもりだ。女官の仕事は雑務が多く、精神的にも常に気を張っていなければならない。
宮女といえば、美しく才知に溢れ、理想の職業のように思われているが、内実はそんな優美なものではない。王の女と見なされて恋愛も自由にできない上、仕事内容は肉体労働ばかりだ。
そんな彼女たちにとって、折々の宮殿での催しは何よりの愉しみだ。だからこそ、オクチョンもこの蓮見を計画したのである。過酷な労働に耐える彼女たちにとって、この蓮見が少しでも気散じになれば良いと思った。
オクチョンのことをいまだに王妃とは認めず、後宮では?禧嬪張氏?と呼んでいる者たちは多い。そんな者たちは大抵、廃位され追放された前王妃を慕う者たちだ。
だが、現王妃は就善堂では人気があった。就善堂で働く女官で、オクチョンを悪く言う者はまずいない。王妃という至高の地位にありながら、末端の女官にまで気を配ってくれる。時には女官一同を集め、オクチョンお手製のお菓子を配って無礼講のお茶会を開くこともある。
―お優しい中殿さま。
それが就善堂内でのオクチョンにおける認識だった。
眼を閉じたオクチョンの頬を、涼やかな風が撫でてゆく。四阿内は陽光を遮るため、幾分かは涼しい。また、池面を吹き渡る風が通ることもあり、余計に涼感を感じられる。
ここからは巨大な蓮池を一望できる。一面を埋め尽くす蓮の花もよくよく見れば、微妙に色合いが違う。濃いピンクもあれば、純白にうっすらとピンクがかった花もある。それはまるで今、池辺で戯れている若い女官たちのようでもある。それぞれ違っていて、皆が輝き、美しい。
恐らく就善堂で働く者たちの眼には、今のオクチョンは昔と変わらないだろう。
けれど、誰を騙せても、天は騙せない。いや、天のみではない、自分自身は騙せはしない。今の自分がいかほど醜く穢れているか。オクチョン自身は嫌というほど知っている。
涼やかな風に吹かれながら、オクチョンは考えた。
―今の我が身を大王大妃さまがご覧になったら、どう思われるだろう。
恐らく、彼のひとはこう言うに違いない。
―私の知るオクチョンは、そのような人間ではない。
それとも、あの方のことだから優しく微笑み、
―そなたも所詮、伏魔殿の水に染まる運命であったということだ。
と、慰めてくれるだろうか。
いや、大王大妃であれば、けしてオクチョンのようにはならなかっただろう。争い事を好まず、いつも権力の中枢からは距離を置いていた人だった。
その時、ふと思った。大王大妃に似た女(ひと)を自分は一人だけ知っている。オクチョンの眼裏にたおやかな女性の笑顔が浮かび上がった。ほころび始めた白梅のような清楚な美貌、優しげな微笑。
そう、仁顕王妃は大王大妃に似ている。
―忍従のときが終われば、いずれ春は来る。
そう言い続け、ひたすら長く厳しい冬に耐えようとした大王大妃の生き方は、確かに仁顕王妃の生き様に通じるものがあった。
大王大妃は御子にこそ恵まれなかったものの、伏魔殿で長い年月を生き抜き、見事に大輪の花を咲かせた。それに比べ、かつて仁祖王の後宮で王の寵愛を受け、時めいた側室たちの末路はどうだろう。大王大妃を何度も暗殺しようとした趙(チヨン)貴人の末路は、殊に憐れなものだったと聞く。
殺されかけた大王大妃が生き残り、殺そうしたチョン貴人の方が無残な死を遂げた。まさに、人の運命は判らないという証明のようにも思える。
殺されかけた方が生き残り、殺そうした方が死んだ。
また涼やかな風が吹き抜け、オクチョンはそれを心地良いと思うより、何故か膚が粟立った。悪寒は止むどころか、身体中にひろがってゆく。
「ミニョン」
オクチョンは小刻みに身体を震わせながら側にいる側近を呼んだ。
「いかがなさいましたか?」
ミニョンが近寄ってくる。オクチョンは歯を鳴らした。
「寒い、寒いの」
ミニョンがすかさず、オクチョンの額に手を当てた。
「まあ、中殿さま、凄い熱ですわ」
傍らの申尚宮と顔を見合わせ、頷き合った。
「すぐに就善堂にお連れせねばならぬ」
申尚宮がてきぱきと命を下す声が遠くから響いてくるようだ。
「中殿さま(マーマ)、中殿さま、しっかりなさって下さい」
ミニョンの悲鳴のような声が聞こえる。オクチョンはその声をやはり遠くに聞きながら、意識を手放した。
オクチョンの身柄はすぐに就善堂に運ばれ、御医が呼ばれた。
脈診をした御医はその場にひれ伏した。オクチョンはまだ意識を回復せず、枕辺にはミニョンと申尚宮が控えている。粛宗には直ちに連絡を遣わしたものの、いまだ何の音沙汰もない有り様だ。仮にも懐妊中の王妃が倒れたというのに、あまりに不実な仕打ちだとミニョンは先刻から王の無情を嘆いている。
「それで、中殿さまのお具合は、どうなのだ」
申尚宮が問うのに、御医は平伏したまま言った。
「畏れながら、お腹の御子さまの脈が取れません」
この医官はかつて第二王子懐妊のときもオクチョンの診察に当たった。つまり、オクチョンと口裏を合わせ、粛宗にも偽の診立てを報告した者である。
医官の言葉に、申尚宮が息を呑んだ。傍らのミニョンがヒッと叫び声を上げた。
「それは、まさか」
ミニョンが言いかけ、言葉を呑み込んだ。言葉にしてしまえば、不幸が現実となってしまうのを怖れるかのようだ。しかし、二人とも既に理解していた。言葉にせずとも、既に起きてしまった不幸を覆すことはできないと。
申尚宮が静謐な声音で言った。
「お腹の御子さまに変事があったということだな」
「さようです」
医官は重々しい口調で言った。
このような時、やはりまだ若いミニョンより年嵩の申尚宮の方が落ち着いて対処できる。申尚宮は事務的な口調で訊ねた。
「これから中殿さまは、どのような経過を辿られる?」
誰もこの場で口にしないが、胎児が亡くなっているのは確かだった。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ