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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

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「判っています。殿下はお気づきになっていないでしょうが、あなたはお優しい。ムスリ出身の私に隔てなく声をかけ、親切に部屋まで連れていって下さいました。今ですら、間諜(スパイ)だと判っているのに、私を気遣って下さる。そんな方だから、私は自分の意思でここに参りました」
 私を抱いて下さい、殿下。
 ファヨンは、小さいけれど、きっぱりとした声で粛宗を見据えて告げた。

 その夜、チェ・ファヨンが初めて大殿の粛宗の寝所に伺候した。チェ尚宮がまだムスリだった時代、粛宗が彼女を?見初めて彼女の室で一夜を明かして?以来、彼女が公的に王の寝所に召されるのは初めてのことだった。
 崔尚宮が寝所に入ってほどなく、煌々と点っていた寝室の灯りは消えた―。
 一夜明けた翌朝、ファヨンが目覚めた時、既に同じ褥に眠っていたはずの王はいなくなっていた。ただ寝乱れ、幾つもの渦を作った寝床だけが昨夜の二人の獣じみた交わりを物語っている。
―あなたは本当に残酷な男ね。
 ファヨンの眼から涙の粒が溢れ、ひと粒だけ頬をつたい落ちる。後にも先にも、ファヨンが泣いたのはこれが生まれて初めてである。彼女は生涯で初めての涙を無造作に拭った。
「男に棄てられて泣くなんて、ホント、らしくない」
 けれど、初めてだったのだ。女スパイは時に色香を武器とすることは珍しくない。最後まで交わらなくても、交合めいたことをするのは日常茶飯事だし、むしろ、身体を重ねている最中の方が男は気を緩めて秘密を口走ることが多いものだ。
 それでも、ファヨンはこれまで誰にも最後まで抱かれたことはなかった。濃密なキスや裸を見せた相手はいても、抱かれたのは粛宗が初めてだったのだ。
 それでも、あの男は少しも動じなかった。ただ、破瓜の痛みにファヨンが叫び声を上げたときだけは、優しく手を握り、あやすように囁きかけてくれた。
 あの男の唇は冷たく、どこか雪の匂いがする。それはファヨンが育った山頂のあの村の降り積もる雪の香りに似ていた。棄て子だったファヨンは密偵集団を率いる養父に拾われたそのときから、密偵として生きることを宿命づけられたのだ。
 まだ物心つくかつかない中から、厳しい訓練をたたき込まれた。それは馬を駆ったり弓矢、剣術を学ぶことだけではない。人の心を読み、自在に操り、時には女であることを武器にせよと言われた。そのために、閨で男を蕩けさせる房中術まで元妓生だという女に教わった。
 生娘でありながら、一糸纏わぬ姿を男にさらし、身体中を弄り回されるのも、その?訓練?の一つだった。身体のどの部分をどんな風に使えば、男を閨で蕩けさせられるか。徹底的に仕込まれた。そうやって、あらゆる面で人を籠絡し操る女間諜として育て上げられたのだ。
 粛宗のしんと冷えた唇は、何故かあの深い山里に降り積もる雪を彷彿とさせる。闇夜に漆黒に覆われた空から間断なく降りしきる純白の花びら。
 唇は凍えるほど冷たいのに、あの男の身体は熱く、彼は情熱的に私を二度も抱いた。
 自分の上に覆い被さった逞しい身体を自らも腕を回して抱きしめた。そんな彼女に王は言った。
―以前も申したろう。今後も私の心を得ようなどとは思うな。私の心は、ただ一人の女のものだ。
 何て残酷な男だろうと思った。この男は最初から容易に手に入れられはしないと覚悟はしていたけれど、流石に生まれて初めて男を受け入れた夜、当の惚れた男から直裁に告げられるのは辛かった。
 刺客は心を持つな。とは、幾度もたたき込まれた教えだ。でも、この夜、ファヨンは刺客でも間諜でもない、ただの一人の少女にすぎなかった。
 左議政から、そろそろ本腰を入れて王を籠絡せよ、と命じられたのは真実だ。けれど、いかなファヨンだとて、抱かれるとなれば、相手は選んだ。嫌な男なら、最後まで抱かれるふりをして、事を中途半端で終わらせるやり方を選んだだろう。
 女間諜は、そういう教育も積んでいる。嫌な男と床を共にする時、相手には?最後まで抱いた?と思わせ、実は最後までは身体を許さない。そういうすべもあるのだ。
 別に純潔を守りたいなどと乳臭い小娘のような幻想を後生大事に守っているわけではなが、女心としてやはり最初は好きな男に抱かれたかった。
 そんな時、粛宗に出逢ったのだ。
 ファヨンにこの上ない冷酷な科白を突きつけた王の双眸は、漆黒の闇に覆われていた。
 相手の感情を読むことに長けているファヨンだが、どうもこの若い王の心は深すぎて、なかなか読めない。
―殿下がただ一人の女と思われているのは、中殿さまですか?
 だが、粛宗はその質問には応えなかった。もとより、ファヨンも返事を得られるとは考えていなかった。かえって沈黙を守ったことが男の何よりの心を物語っているようにも思えたのだ。
 ファヨンの頬をまた涙がついた落ちる。
―あの女、必ず殺してやる。
 彼女の瞼に、一人の女の面影が鮮やかに浮かび上がる。初めて就善堂に挨拶に出向いた時、王妃は親しげな態度でファヨンを迎えた。当時はまだ正妃に冊立される前ではあったが、その堂々とした挙措は到底、陰で?賤民上がりのなりあがり?と蔑まれているようには見えず、生まれながらの貴婦人のようでさえあった。
 だが、ファヨンは淑やかで優しげなあのチャン・オクチョンの心をすぐに読めた。
 あの女は、観音菩薩の仮面を被っている癖に、心に恐ろしき野心を抱いている。とはいえ、禧嬪が野心を抱いたからとて、ファヨンはそれを軽蔑はしない。ファヨン自身も奴婢として社会の底辺で生きてきた。身分制度の徹底したこの国で賤民として生きることがどれだけ過酷かはファヨンも知っている。
 むしろ、底辺からついにはこの国一番の地位にまで上り詰めたその根性は賞賛に値するといえよう。
 それとは別に、ファヨンはあの女が嫌いだ。自分も奴婢上がりの癖に、ファヨンを見下すような眼で見ていた。元々嫌いな上に、更にファヨンが唯一欲しいと思った男の心をあの女は掴み、自在に操っている。
 あの女が生きている限り、あの男の心は手に入らない。
 そう、この瞬間、彼女を突き動かしているのは間違いなく嫉妬という名の感情であった。そして、この瞬間はファヨンの報われぬ長い恋の始まりでもあった。

  宿命の対決

 七月初め、宮殿の蓮池には美しい蓮花が見事に咲き揃った。
 一面をピンク色の大振りの花たちが飾り、あたかも当代随一の職人が丹精込めて織り上げた綾布のようだ。後宮でも女官たちは連れだって休憩時間には蓮池を訪れる者たちが多かった。
 就善堂でも、蓮見の計画が持ち上がり、その日は主人のオクチョンはむろん大勢の女官たちが集まって蓮池に向かった。普段は申尚宮とミニョンしか連れていかないが、このときだけは違った。
 希望者を募ったところ、予想外にたくさんの者たちが集まり、オクチョンは総勢二十人近い女官たちを引き連れて行くことになったのである。
 その日は殊に暑かった。朝からねっとりとした大気が素肌に纏わりつくようで、気温もぐんぐんと上がった。昼前だというのに、もう立っているだけで汗ばむ炎暑だ。
 殊にオクチョンは身重だけに、真夏の暑熱は堪えた。蓮池に辿りついたときには王妃の豪奢なチマチョゴリもかなり汗で湿っていた。