小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻

INDEX|14ページ/41ページ|

次のページ前のページ
 

 そこで、ファヨンは愉しげに声を上げて笑った。
 粛宗が怒りのあまり、執務机に置いた片手を握りしめたのも実は、この女はちやんと見ていた。動転している粛宗は、そのことに気づいていない。
 ふいに、ファヨンが立ち上がった。静々と執務机の前まで歩いてきたかと思うと、腰を屈め粛宗の耳許に唇を寄せた。
「私、知っています」
 声もない粛宗に、ファヨンがまた口の端を引き上げる。ちょっと見はたおやかで、可憐な美少女だが、こういう笑い方をすれば、やはり本来の油断ならぬ狡猾さが露呈する。
 彼は、ぼんやりとファヨンの形の良い唇が動くのを見つめていた。だから、彼女の言葉が殆ど耳に入ってはいなかった。
「―下、殿下」
 焦れたような声音に、慌てて顔を上げた。
「ああ、済まぬ」
 改めて眼前の女を見上げれば、ファヨンがにっこりとした。
「よく聞いて下さいね。殿下の大切な中殿さまの御事なのですから」
「中殿の?」
 粛宗は眼をまたたかせた。
 何故、ここにオクチョンが出てくる? 疑問に思いながらもファヨンの美しい顔を見つめていると、女はとんでもないことを言った。
「前王妃さまは無実です。あの慈悲深い天女のようなお方が幼い世子さまやご懐妊中の中殿さまを呪うなど、あり得ません。本当は殿下もそのように思し召していらっしゃるのではありませんか?」
「―っ」
 粛宗の動揺を愉しむかのように、ファヨンはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「すべては中殿さまの悪巧みから起こった茶番劇。そのために、罪もない仁顕王后さまは廃位され庶人の身分に落とされた。今のお暮らしも到底、聞くのも涙、語るも涙のお気の毒な境遇とのことですわ」
 と、これは、口ほど同情も憐れみも感じてはいない様子で言う。
「前王妃さまのお身内でさえ、殿下のこれ以上のお怒りを買うのが怖くて、前王妃さまの困窮ぶりに知らぬふりをしているとか。もう、世も末ですね」
 しまいはとどめを刺すように言い、じいっと粛宗の反応を窺っている。だが、粛宗は衝撃のあまり、ファヨンの態度を気にかけるゆとりもなかった。
「前王妃がそのように困窮した日々を送っていると?」
「あらあら、つれない方。長年連れ添った妻の、あら、失礼、元妻でしたか」
 わざらしく言い直し、続ける。
「元奥方さまのその後は少しもご存じないのですね」
 粛宗は応えなかった、というより、応えられなかったのだ。そうだ、彼は故意に知ろうとしなかった。前王妃がどのように過ごしているか。知れば、自分が何をしでかすか判らず、不安だったからだ。
 宮殿を飛び出し、王妃が身を寄せているミン氏の実家まで飛んでゆきそうな自分が怖かった。王妃を思いきり抱きしめ
―済まなかった。
 と詫びてしまうかもしれない。今だって叶うことなら、そうしたい。迎えにいって、
―あれはすべて誤解であった。
 と、心から妻に詫びたい。けれど、それはできないことだ。オクチョンを新しい王妃に立てた今、前王妃が戻る場所は既にない。幼い世子の母でもあるオクチョンを無下にはできない。
 今、不甲斐ない自分ができるのは、何も見て見ないふりをすることなのだ。
 ファヨンは満足げに頷いた。これで十分に王の心を揺さぶったと手応えを感じたからだ。
「お気の毒に、前王妃さまは殆ど寝たきりのお暮らしだそうですよ」
「何だと!」
 噛みつかんばかりの王に、ファヨンがひそかに笑みを堪えているのも気づかない。
「元々お身体が弱い方でしたもの。その日に食べるものさえ事欠く有り様です。お弱りになるものは無理はないでしょう」
 粛宗は怒鳴った。
「もう、良い。判ったから、出ていってくれ」
 それでも、ファヨンは出ていこうとしない。ついに彼は机を拳で叩いた。
「出てゆけというのが聞こえなかったか!」
 この年頃の女官なら、普段は穏やかな王がここまで激怒すれば、すっ飛んで逃げるだろう。しかし、ファヨンは並みの女ではない。
 彼女は王の怒りにも頓着せず、しれっと言った。
「もし私が今、ここで叫べば、どうなるでしょうか。今、殿下が私を怒鳴られたように、こう言うのです」
―前王妃さまが廃位されたのは、中殿さまの悪巧みが原因だと。すべては中殿さまが王妃の座を乗っ取るために仕組んだ自作自演です。
 ファヨンはわざと一語一語、区切るようにゆっくりと述べ立てた。
 最早、粛宗の顔色は紅を通り越して蒼くなっていた。
「そなたは私を脅すのか!」
「滅相もない。国王さまを脅すなど、大それたことを私がするはずがありません。私は、ただ取引をしましょうとお願いしているだけですわ」
「取引だと?」
「はい、殿下」
 ファヨンは美しい面に輝くばかりの微笑を浮かべている。大抵の男なら、この神々しいまでの美貌に骨抜きにされるのだろう。しかし、粛宗は違った。ファヨンが粛宗の怒りに動じないのと同様、ファヨンの美しさにも見かけだけのしおらしさにも騙されない。
「中殿さまの悪巧みを黙っている代わりに、一つお願いを聞いて戴きたいのです」
 粛宗は黙り込んだ。自らを落ち着かせるように、しばらく机を人差し指で軽く打ち鳴らしている。それが無意識の仕草だとファヨンは判っていたが、何も言わなかった。
 永遠にも思えるほどの沈黙の後、粛宗が口を開いた。
「そなたの望みは何だ?」
 ファヨンの口の端が勝ち誇ったように引き上げられた。
「私をご寝所に召して下さい」
「―」
 粛宗はまたも言葉を失った。
「それは左相大監の命令か」
 珍しく、このときだけは間があった。ファヨンは少しく後、応えた。
「これは養父の命でもあり、私自身の意思でもあります」
 言い切ったファヨンを見つめる粛宗の眼が一瞬、淀んだように暗くなった。流石のファヨンもその瞳の底に潜む感情を読むのは難しかった。
「自分の申していることが判っているのか?」
「はい」
 これには即答すれば、粛宗が息を長々と吐き出した。
「そこまでして左相の願いを遂げてやりたいか、そなたは自分の身体を醜い謀を成就させ手段として使おうとしているのだぞ」
 粛宗は一旦うつむき、首を振った。
「もっと自分を大切にしろ。先ほどの科白は聞かなかったことにする。ゆえに、心から恋い慕う男に出逢ったときに、あの科白を言え」
「怖れながら、そのご命令には従いかねます」
 ファヨンははっきりと言い、粛宗を真正面から見つめた。
「先ほども申し上げたように、私は自分自身の意思で、ここに来ました。左相大監に命じられたからというわけではありません」
「というと―」
 ファヨンの煌めきを宿す双眸が射貫くように王を見つめた。
「私は殿下をお慕いしております。ゆえに抱いて戴きたいのです」
「―馬鹿な」
 そのひと言に、ファヨンが静かに微笑した。
「何が馬鹿なのでしょうか? ムスリが王さまを好きになるのは、そんなにおかしいのでしょうか。王さまも所詮はただの男なら、ムスリも一人の女です」
 粛宗が愕きから立ち直ったように言った。
「そなたを貶めたつもりはない。ただ、そなたは左相の命を遂行するため、私に気があるそぶりをしているだけであろうと申したかっただけだ」
 ファヨンがフっと笑う。