炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
「恵民署では、息子ではなく娘を捜したのです。予め恵民署の医官に問い合わせをしたところ、身よりのない娘で、恵民署の手伝いをしている良い子がいるとのことで」
「ホウ、その娘は幾つだ?」
「六つになるとのことです」
「で、実際に逢ったのか?」
話の続きが気になって聞けば、ホ内官は至極真面目な顔で頷いた。
「はい」
「どのような子であった?」
「気立てが良く、よく働く子です。嫌な仕事も快く引き受けているようでした」
「それは良い娘に出逢えたな。本当に身よりの方は大丈夫なのか?」
一度は棄てた我が子が羽振りの良い両班家に迎えられたと聞くや、金目当てに名乗り出てくる親身内がいると聞く。
ホ内官は、それにも頷いた。
「六年前、恵民署の門前に棄てられていた赤児を憐れんで育てたのだそうです。その時、粗末な産着の他に身分を証すものは何もなかったそうですから」
「では、その娘も苦労したのであろう。引き取ると決めたのか?」
「私もさることながら、妻が殊の外気に入りました。息子の方はまだ候補を絞った段階ですが、娘の方はその子に決めております」
「しかし、何故、息子だけでなく娘をも引き取る気になったのだ、ホ内官」
彼の問いに、ホ内官は思慮深げな眼を伏せた。
「殿下、私は妻には負い目があります。こういう言い方は適切ではないかもしれませんが、私は妻には常に申し訳ないと思う気持ちがあるのです。ゆえに、息子を引き取ると決めた時、娘も欲しいと言い出した妻を止めることはできませんでした」
「俺は内官ではないから、迂闊なことは言えぬ。なれど、ホ内官の気持ちは同じ男として理解できるような気はするよ。男というのは、いつでも惚れた女には弱みを握られているのも同然だ」
「殿下におかれましては、畏れ多いことですが、中殿さまがそうなのでしょうか」
「さあ、な。それは、そなたの想像に任せるとしよう」
粛宗は笑いながら言い、続けた。
「それにしても、そなたもなかなか大変だな。息子だけでなく娘も引き取るとなれば、同時に二人の子持ちになるわけだ」
ここで珍しくホ内官が笑い声を上げた。
「ハハ、そうですね。しかし、賑やかな方が良いでしょう。私たち夫婦にとっては嬉しい悲鳴です」
「オクチョンはいつもミニョンのことを気にかけている。ミニョンがそなたのような得難い良人と出逢い女として幸せであることを歓ぶだろう」
「勿体ないお言葉です」
ホ内官はこんなときでも律儀な彼らしく生真面目な態度を崩さず、一礼して出ていった。
入れ替わるように、今度は別の内官の声が聞こえてくる。
「殿下、崔尚宮がお見えになっております」
「―通せ」
粛宗が短くいらえを返すと、ほどなく外がから扉が開き、崔特別尚宮―ファヨンが入室してきた。いつものように一部の隙もなく美しく装いを凝らしている。
ファヨンは粛宗の前に立つや、優雅に腰を折った。
「何か用か?」
彼は訴状の一枚に眼を落としたまま、ファヨンを見ようともしない。
ふいにクスリとひそやかな笑いが聞こえ、粛宗はつい顔を上げた。
「何だ? 私が滑稽なことでもしたか?」
と、ファヨンが笑いながら言った。
「訴状が裏表反対です」
「うっ」
粛宗は改めて自らの手許を見やり、絶句した。確かに、彼はご丁寧に訴状の真裏をさも熱心に読んでいるふりをしていた!
粛宗は憮然として言った。
「どうせ私は愚かな王だ。そのように左相に報告するが良かろう」
「私が笑ったのは、偉大なる聖君と民から尊崇されている殿下にも、人間らしいところがおありなのだと判って安心したからです」
「フン、嘲笑したその次は、お世辞か。左相が送り込んだにそなたにしては、お粗末な手管だな」
ファヨンは、それには応えず、謎めいた微笑を湛えた。
「殿下、最近は面白き小説が巷の民の間で流行っているそうにございますよ」
「小説だと?」
「はい。さる両班家のもめ事を描いたものだそうです。ある両班が妾の色香に狂って正妻を追い出した。男は狡猾な妾の企みを見抜けず、糟糠の妻である正室を追放し、妾を正妻の座に直したとか。民は気の毒な前夫人に同情の涙を惜しまないと専らの噂ですわ」
粛宗の形の良い眉がつり上がった。
「それは私への皮肉か、崔尚宮」
「いいえ、皮肉などではありません。これは真実です、殿下。昔から言うではありませんか、民の声は天の声と。一人の男の冷酷な仕打ちに民が怒っているということを殿下にお伝えしたかったのです」
巷で、そのような小説が流行っているのは確かであった。粛宗も噂くらいなら知っている。世間では、その妾の色香に狂ったのが粛宗自身で、追い出された憐れな前妻が前王妃、ずる賢い妾がオクチョンだといわれている。
誰が書いたのは判らねど、書いたのは教養のある両班ではないかと言われ、民どころか両班たちも実はひそかに争うようにしてその小説を手に入れて読んでいるとか。
「そなたは、そんなつまらぬ話をしにわざわざここまで訊ねてきたのか?」
「いいえ」
崔尚宮は執務室から少し離れた場所にある丸机を差した。
「座らせて戴いても?」
「勝手にしろ。どうせ、そなたは私が出てゆけと申しても、自分の喋りたいことを喋るまでは出てゆかぬであろうからな」
ファヨンは丸机を挟んで向かい合う椅子の一つを引き、ゆったりと腰を下ろす。承恩尚宮どころか、既に嬪にでもなった高位の側室のような堂々した立ち居振る舞いには粛宗も呆れるばかりだ。
「それで、何だ? 何の企みがあって来た」
「殿下はつれないお方ですのね。中殿さまには甘い癖に、私の顔を見ただけで、まるで牙を?きだしにして威嚇する猫みたい」
ファヨンはクスクスと笑った。
―ええい、いちいち気に障る女だ。
粛宗は苦虫を噛み潰したような表情でファヨンを見た。
「さしづめ、そなたは猫に追い詰められた憐れなネズミか?」
「まあ、追い詰められたネズミは、私なのでしょうか、それとも殿下なのでしょうか」
ファヨンは意味深なことを言い。椿色に塗った形の良い唇を引き上げた。
「そなた、何が言いたい?」
「殿下、先ほども申しました。民の声は天の声、天が殿下の前王妃さまに対する無情な仕打ちを憤っています。殿下は、このまま天の怒りを放っておかれるおつもりなのですか?」
「そのようなことは、そなたには関係ない。私が考える」
突っぱねた粛宗に、ファヨンの玲瓏とした声が響いた。
「殿下がそこまで中殿さまを庇われる理由は何なのでしょう。いまだご幼少の世子さまを不憫だと思われるから? それとも、純粋に中殿さまを愛しいと思われるからなのか」
粛宗が怒りに声を震わせた。
「幾ら何でも出しゃばりすぎだ。そのよく喋る口は無理にでも封じないと無駄話を止められないのか?」
暗に、これ以上の無礼は許さないと言う王に、ファヨンは更に口の端を歪めた。
「どうぞ、私を殺したいのなら、この場で殺して下さい。されど、殿下。私を殺して良いのでしょうか。西人は仁顕王后さまの廃位で著しく鬱憤を抱え込んで、今や一触即発の状態なのですよ。西人の筆頭たる左相大監が前王妃さまの代わりに後宮に送り込んだ私を今、殿下が亡き者にされたとなると、溜まりに溜まった西人の不満はいつ爆発することやら」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ