炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻
―我が身の浅はかさがかえって大好きな男に他の女を近づけることとなってしまった。
と。
セリョンが倒れたときの粛宗の様子は、尋常ではなかった。あれは単に一女官を見る王の眼ではない。律儀な粛宗のことだから、大方はセリョンに好意を抱いていても、婚約者を持つ女であると遠慮していたのだろう。
図らずも、粛宗があの娘に対して並々ならぬ気持ちを抱いていたというのはオクチョンの勘が当たった。
オクチョンが噂などに惑わされず粛宗を信じていれば、セリョンはお腹が目立ち始める前には後宮を去り、婚約者と結婚していたに相違ない。しかし、セリョンを流産させた結果、セリョンは婚約を破棄した。子も恋人も失ったセリョンと粛宗が結ばれるのは時間の問題であったろう。
元々、粛宗はセリョンに好意以上のもの、強いていえば男が女に寄せる関心を抱いていた。セリョンが婚約を解消し自由の身となった今、セリョンへの同情と好意が粛宗をセリョンへと駆り立てたのは何の不思議もなく、むしろ自然ななりゆきといえた。
一方、セリョンの一件があってから、粛宗はどうしてもオクチョンを今までと同じ眼で見られなくなった。しかも、彼の耳に日々、入ってくるのはオクチョンの良くない噂ばかりであった。それは以前のように
―国王殿下をご寝所で誑かす妖婦。
といった、あまり意味のない曖昧なものではなく、はっきりと具体性をもったものばかりだ。
あるときはオクチョンが茶を所望し、それを持ってきた女官に湯飲みを投げつけた。
―何だ、この茶は。
持参した茶がぬるすぎ、再度運ばせれば今度は焼けどするような熱さだったという。怒ったオクチョンは女官を自ら鞭で打った。
また、あるときは華やかなノリゲを幾本もつけていた若い女官に眼を留め、
―必要以上に飾り立てるのは御法度と知らなかったか? 大方は殿下のお眼に止まろうという魂胆であろう。
と、これまた女官を一日中、見せしめとして庭に正座させていた。折しも梅雨の時期とて、二日二晩、雨に打たれた女官は倒れ肺炎を起こした。一時は意識を失い危篤に陥ったが、医官の手厚い看護で息を吹き返した。
オクチョンの残酷な所業が次々と粛宗に届き、彼は頭を抱えた。
―俺は間違っていたのか。
観音菩薩のように優しい前王妃を廃し、オクチョンを王妃の座に据えた。それは、ひとえにオクチョンの言い分を信じたからだ。
この頃、彼はしきりに考えるようになった。考えてみれば、前王妃がオクチョンを呪詛した証拠といえば、中宮殿の床下から出たという人型しかない。あの時、彼は妻に裏切られたという怒りに囚われ、冷静な判断がきかなくなっていたのは確かだ。
そして、人型が見つかる前、オクチョン自身が悪夢を見たと怯えていた。夢の中で、オクチョンは見知らぬ赤児を抱き、その赤児を前王妃が縊り殺したのだと訴えた。オクチョンが悪夢を見た矢先に懐妊が判明し、粛宗は、寵姫の見た夢と現実が見事なまでに符合していることに恐れを抱いた。
そのため、もしや前王妃が本当にオクチョンや腹の子を呪っているのではないかと疑心暗鬼に陥った。そして、頃合いを見計らったかのように、中宮殿の床下から人型が出現し、数日後には世子を呪ったと思しき人型まで現れた。時ここにいたり、粛宗は怒り頂点に達して前王妃に廃位の王命を出したのだ。
―オクチョンは変わった。
ここ最近、聞こえてくる王妃の噂はどれもが良からぬものばかりだ。些細なことで憤り、女官を叱責し鞭打つ。以前のオクチョンならば、考えられないことだ。
だが、と、彼は考えるのだ。オクチョンが変わったのではなく、元々そのような女だったのだとしたら。いやと、彼はまたここで首を振る。
―俺が見たオクチョンは確かに、心の美しい優しい女だった。
だとすれば、やはり、彼女は変わってしまったのだろうか。長い後宮での生活が彼女を心優しい娘から、夜叉のように冷酷で残忍な女に変貌させてしまったのか。
後宮が伏魔殿と呼ばれていることは粛宗も知っている。伏魔殿に住むのは鬼ばかり―。だとしたら、オクチョンもやはり?鬼?になってしまったのか、彼がよく知る大好きなオクチョンはもう、いなくなったのだろうか。
思考は堂々巡りするばかりだ。
それに、あの事件は落ち着いて考えてみれば、あまりに出来すぎている。まるで見つけて下さいと言わんばかりに中宮殿の床下から出てきた二体の人型。普通、少し知恵のある者なら、あんな杜撰な真似はしない。呪いの人型にしても、もう少し見つかりにくい場所に置くだろう。
要するに、あれは?前王妃がオクチョンと世子を呪っていたことをわざと知らしめたい?ために、置かれていたようにも思える。
つまり、前王妃は何者かに陥れられのだ。そうなると、誰が前王妃にありもしない罪を着せたのかということになる。考えたくないことではあるけれど、前王妃の廃位・追放で誰が最も良い目をしたか?
粛宗はその日も大殿での執務中、つい手を止めて考え込んでいた。
何より、前王妃の人柄からして他人を呪ってまで己れが幸せになろうと企むのが信じられない。あのときは怒りに囚われすぎて、物事が正しく見られなくなっていた。あまつさえ、その前にオクチョンから聞かされた悪夢のこともあり、前王妃を疑いの眼で見るようになっていたことも、それに拍車をかけた。
第一、前王妃が策略を巡らせる理由がない。前王妃はほぼ懐妊できる見込みはなく、これから先も母となれる運命ではなかった。ゆえに、我が子のために世子を亡き者にする必要もなく、何をせずとも王妃の立場を守ることはできたのだ。にも拘わらず、わざわざ下手な策略を巡らせて王の怒りを買えば、かえって地位が危うくなる―その程度のことは利発なあの女であれば嫌というほど判っていたはず。
オクチョンは前王妃が懐妊できないというのを知らない。前王妃の不妊は、ごく限られた者だけしか知らないのだから、それは当然だ。もし、オクチョンが前王妃の懐妊を何より怖れていたとしたら。
粛宗は深い溜息をついた。
―王妃を追い払い、後顧の憂いをなくそうとしたとも考えられる。
ならば、オクチョンが見たという悪夢も、あれもすべては嘘偽りだったというのか?
見もしない夢を見たと言い張り、罪もない前王妃を悪者に仕立て、オクチョンの言いなりになる愚かな王を操って思い通りに事を進めたと?
もしや、あの時、懐妊に気づいたというのも嘘で、実はもっと前に自らの懐妊に気づいていたのもかれしない。粛宗はハッと思い出した。オクチョンが倒れたと聞いて就善堂に駆けつけたときのことだ。
あの時、前王妃が赤児を縊り殺す夢を見たとオクチョンが怯えて泣き、粛宗は前王妃に対する疑惑を持つきっかけとなった。あの時、医官ははっきりとオクチョンの懐妊はそのときまで判らなかったと断言したが―。
就善堂を出て中宮殿に向かいながら、彼は見送りに出た申尚宮に問うたのだ。
―御医に診せていたというに、オクチョンの懐妊はわからなかったのか?
あの際、いつもは狼狽えたことのない申尚宮がやけに慌てていた。オクチョンが倒れたこと、不吉な夢のことで頭が一杯だった彼はその不自然さに気づきもしなかった。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第四巻 作家名:東 めぐみ