短編集45(過去作品)
月の絵は一つではない。ちょうど満月から三日月までをいくつかのコマ送りのように描かれている。首を横に動かしながら見ていると、まるで動いているように見えるから不思議だった。
「丸い月もいいが、欠けていく月も素晴らしい」
思わず声に出して呟いた。
「そうでしょう。月には魔力があるんですよ。同じものを見ていても見る人によってまったく違って見えることがある。それが月なんです。お分かりですか?」
いまいち分からない。マスターの言いたいことが分かったように思えるのだが、自分の頭の中で消化されていないのだ。
「分かったような、分からないような……」
「そのうちに分かる時が来ますよ」
そう言ってマスターが含み笑いをした。そこに気持ち悪さはなく、早く知りたいという気持ちがあるだけだった。
「お分かりにならないようですね。まあ、そうでしょうね」
さらなる含み笑いをしたが、さすがにかわいそうに感じたのか、さらに言葉を続けた。
「色ですよ、色。これがヒントですね」
「色……、ですか?」
「ええ、そうです。色です。今は分からなくとも、そのうちに分かりますよ。今感じた色を覚えておくことをお勧めしますね」
今感じている色は完全に真がつくような黄色である。
――暗闇の中で煌いている黄色、本物の月に限りなく近い黄色――
頭の中で繰り返していた。
その日は頭を傾げながら帰ってきた。店に戻ると、
「やよいちゃん、どうしたんだい? ぼっとして。まるで抜け殻のようだよ」
「あっ、いえ、何でもありません」
とは言ったが、その日一日何となくおかしな気分だった。隠れ家であるはずの喫茶「アルテミス」なのに、思い出したのは信之のことだった。ここで思い出す男性といえば、なぜか修司だけだったのだが、それは今の生活の中にいない、非現実的な相手だという思いがあったからだ。
その日はどうしても目の前に広がった黄色が頭から離れなかった。
「すみません、今日は少し早退させてください」
昼過ぎて思い切って言ってみた。
「どうしたんだい?」
「ええ、少し吐き気がしまして、風邪を引いたかも知れませんの」
実はずっと我慢していたのである。少々の頭痛や身体のだるさくらいでへこたれる身体でないことは自分が一番感じている。
――女性の身体って、そんなに柔じゃないのよ――
という気持ちがあるからだろうか。大抵のことは我慢できるつもりだった。
だが、最初は眩暈から始まって、それが収まったかと思うと襲ってきた頭痛。まるで頭が虫歯菌に冒されたような気分だった。
そんな時はじっとしているに限る。ちょうど店内も落ち着いていたこともあって、奥で座り込んでいたが、次第に居たたまれなくなってきた。嘔吐と吐き気が襲ってきたのである。
こうなるともうダメだった。さすがにマスターに許しを請い、帰るしかないと判断したのである。
「ああ、そういうことなら仕方がないね。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます」
そういって表に出ると、夜の帳が下りていた。まだ夕方くらいだと思っていたやよいはビックリしたが、それよりも目の前に煌いているネオンサインがさらなる頭痛を誘発させそうで怖かった。
何とか歩くことができるので、駅の近くまでいけば後はタクシーで帰るつもりだ。この近くの駅は急行も止まる駅なので、それなりにタクシーもいっぱい待っている。最終電車近くにならなければ駅前からタクシーの待ち合わせが消えることはないのだ。
駅までの途中に児童公園があるが、今まではただ通り過ぎるだけだった。しかしその日はさすがに一気に駅まで行くのが疲れたのか、ベンチで座っていくことにした。
初めて入る児童公園だったが、似たような公園が多いせいか、前にも来たことがあるような気がしてきた。記憶にある広さよりも少し狭めの公園だが、子供の頃の記憶が急によみがえったのではないだろうか。
子供の記憶は低い位置から見るせいもあってか、今同じものを見るよりも若干大きめの記憶をとどめているものだ。
しかし、気持ち悪さのためか、長いこと頭を上げていられるものではなかった。とりあえず落ち着くまで座っていることにした。
――そのうちに落ち着くわ――
と、どこから出て来るのか分からないが、不思議な根拠めいたものがあったのだ。
視力がよくなったような錯覚があった。元々視力はいい方ではなく、特に夜などはボヤけて見えていたにもかかわらず、ハッキリと見えている。特に、信号機のような色には敏感で、赤は真っ赤に、緑も真っ青に近い色に見えている。空気が乾燥しているのが分かるような気がしているからだろうか。
特に最近赤い色が気になっているようだ。
まわりを見ても、すべて赤み掛かって見える。まるで夕焼けを見ているようだが、夕焼けを見ているといつも気だるさを感じる。
身体が重たいように思うのは、その気だるさから来るものなのか、それとも他に原因があるのか分からない。ただ、何となく最近太ってきた気がしてくるのだ。
食欲も少し旺盛で、まるでもう一人自分の中にいるような気がする。
鏡を見ていてもそのことを感じる。影が二重に見えてきて、濃くなっているようだ。血が滲んでいるようなステーキを食べるのが好きだったのに、今は見ているだけでも気持ち悪いに違いない。
身体に変調を間違いなく感じた。それは今までにない変調だったにもかかわらず、どこか懐かしさを感じる。
それはきっと以前から想像していたものかも知れないが、こんな雰囲気だということは本で読んだだけだった。
もちろん、大体の想像はつく。違っているかも知れないが、身体の重たさ、そして、妙に熱を持った感覚は、もう一人の自分がいるようで想像が核心に近いものである気がして仕方がない。
――妊娠――
この二文字が頭を掠める。
やよいは子供を生んだことがない。夫との仲が急に冷めてきて、歯止めが利かないと思うのも、きっと子供がいないからだろう。子供がいないことで寂しさなど感じたことはなかった。だが、心のどこかに隙があったことは認めざる終えないだろう。だからといって後悔などしていない。むしろ、自分というものを見つめるための時間だと思っているくらいだ。
――これからも今の関係を続けていきたい――
そう思うのは虫が良すぎるだろうか?
――そうね、彼にも自分の人生があるのよね――
もし身体に宿ったのが彼との愛の証であれば、どうするだろう?
――失いたくない。では何を?
彼を失いたくないのは間違いない。だが、彼を失うことが、それだけではすまない気がするのだ。元の生活に戻るだけではない、何かがあるとすれば、この身体の変調かも知れない。
昔のことを思い出すのは歳を取った証拠だというが、本当にそうだろうか。修司のことを思い出すなど、今までにはなかったにもかかわらず、実に身近に感じる。不思議なものだ。
さっきまで黄色く見えていた月が、急に赤みを帯びて感じる。身体に起こった変調がこのまま続くはずはないと思いながら、ゆっくり見上げた月だった。
――子供ができるはずのない身体だと思っていたのに――
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次