短編集45(過去作品)
大人になることが成長したことだと思い、嬉しく感じていた頃が懐かしい。まるで昨日のことのように思い出されるが、実際にはまだ子供でいたいと思っていたのかも知れない。だからこそ、大人になっても頬を赤らめるほどの恥じらいを感じるのだろう。そして、昼のドラマを見るのが怖いのもその証拠だ。
――大人になるって?
何度自問自答したことだろう。大人というものが汚いものだという気持ちを感じすぎていた。専業主婦に納まって、子供のように夫のそばにいたいと思っていたのは、今は昔である。
目の前にいる男性が、夢の中に出てきた主人公に見えることも、自分が目の前にいるように思わせる原因である。さっきまで夢の中で見ていた自分を目の前に見るのは、夢の中でも誰かに見つめられていたことを思い出させた。
――正夢だったのかしら?
想像はとどまるところを知らない。
男性の顔は見れば見るほど、懐かしさを感じる。
――どこかで会ったのかしら?
記憶とすれば幼い頃の記憶、よく覚えていたものだと感じるほどだ。
――出会ったとすればあそこかな?
と感じるところがある。あれは海辺を散歩している時のことだった。潮風を浴びるのが苦手なので、あまり海の近くに行くことがなかったのに、あの時はなぜだったのだろう。とにかく珍しいことだったので覚えていたのだ。
海風は生暖かく、魚の臭いがまともだった。だが、何かの目的があって歩いていたのだが、きっと友達のところへ遊びに行った帰りだっただろう。
確かに海辺が住まいの友達がいた。時々遊びに行っていたので、海辺の風景の記憶というと、いつもテトラポットがかすかに見える防波堤が続く道を想像している。防波堤の高さは子供時代とはいえ自分よりもはるかに高い位置にあったので、その向こうに海があるなど潮風がなければ気付かないくらいである。
友達はよく釣りをしていた。
「釣りって短気な人がする趣味なんだって」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、私なんて向かないわね」
「そうだね、君だったらもっと他にしたいことが一杯ありそうだ」
男勝りだが、芸術的なことも好きだった。絵を描いてみたり、詩を書くことが好きだったのは、一部の親しい友達しか知らないだろう。そういう意味では、海辺の友達は「親しい友達」の一人であった。
その友達の面影があるのだ。
名前を修司といい、彼は普段からやよいのことを女性としてよりも、親友として見ていたようだ。
修司もやよいもお互いにまだ相手を異性として見ていなかったはずだ。少なくともやよいはそうだった。だから親友として付き合えたのだろう。
「男女の関係になってしまえば、そこには親友と呼べるものはないよ。もっといえば、男女間に親友なんていうのは存在しないと思うね」
これは康友の考えだ。
――冷めた考えだわ――
康友とうまく行っていた頃にはそう思えたかも知れない。だが、今は別に冷めていると思えないのは、他の男性を異性として見ているからだ。
――もし、修司が今目の前に現れたら分かるかしら――
成長していても、小さな頃の面影が残っていてほしいと一瞬感じた。だが、なぜかやよいはそう思わない、少しでも変わっていてほしいと思うのだ。きっとそれは子供の頃に感じた親友という思いを消さずに、新たな男性として目の前に現れてほしいという願望によるものだ。
だが、まったく違う人物として現れてしまって、何となく面影だけが残っているくらいなら、まったく思い出せない方がいいように思える。複雑な気持ちに拍車が掛かり、相手をどういう目で見ていいか悩んでしまう気がするからだ。
喫茶店に正対している目の前に現れた男に感じた修司の思い出、まったく違う男だということは分かっている。男はどう見てもまだ二十歳そこそこ、二十代後半のやよいから見ればまだ幼さが残る。
だが、なまじ似ているだけに、思い出の中にいる修司の存在が徐々に大きくなってくるのも感じていた。
一体その後、どのようにして仲良くなったのか、あやふやだ。声を掛けてきたのは目の前の男からだった。やはり男は修司ではない。名前を信之といい、年齢も二十一歳ということだった。
信之はその店では常連で、本を読んでいるやよいの表情をじっと見ていたようだ。やよいが気持ちよくなって眠ってしまう前から見つめていたというが、どうして気付かなかったかと思うほど読書に集中していたのか、信之が気配を消していたのか分からない。
話の内容から、普段やよいが感じていることに似た感覚を持っているように思えたのも嬉しかった。まだ学生で社会に出たことがないので、ちょっとした甘さがあるのは仕方のないことではあるが、それを差し引いても、
――夢見る青年――
というイメージがあり、あどけなさに皮肉さを一切感じなかった。
年下を見ていると、どうしても背伸びしたいという思いがあるからか、生意気なところが、どこか皮肉さを含んでいるように思えてならない。特に気を遣わないことが若さの特権だなどと勘違いしている連中から比べれば謙虚さは満点である。
今の学生を見ていると、中途半端な人がいないように思える。背伸びしたいのか、バカにしか見えないチャラチャラした連中か、真剣に将来を考えて真面目に頑張っている人たちである。それが社会に出てどう変わるかが分からないので一概には言えないが、前者は見るに耐えないものがあるのは間違いのないことだ。
信之は質素な生活をしている。コーポのような学生アパートに一人暮らしで、今の大学生にしては、地味な生活に違いない。一番最初に部屋に行った時に感じたのは、
――なんて生活感のない部屋なのかしら――
散らかっているわけでもなく、こじんまりとしているが、暖かさを感じない。人のぬくもりを感じないと言った方がいいだろう。
こんな部屋に入ったのは初めてだ。男性の一人暮らしの部屋に入ったことはあるが、もっと散らかっているか、綺麗にしていても、誰か女性の影を感じていた。しかし、信之の部屋にはどちらも感じない。思わずやよいは母性本能をくすぐられた。
――私が面倒を見てあげないといけないんだわ――
という思いが強く、それは今までに感じたことのないものだった。男勝りなところが強かったやよいに母性本能などというイメージは自分の中ではなかったのである。
今まで付き合った男性は年上ばかりで、康友などは、十歳も歳が離れていた。少しくらい年上の方が、話が合うという感覚は前からあったのだ。
夫の康友は、真面目がモットーで、真面目だけがとりえとも言える人だった。付き合っている頃はそうでもないと思っていたが、結婚して亭主という目で見れば面白くないところが目立って見える。
――信之君が歳を取れば夫のようになるかも知れない――
あどけなさが魅力で、そのあどけなさを忘れられないやよいは、このまま放っておけなくなった。
――ちょっと付き合ってみるか――
付き合い始めるとしても、その程度のものだと思っていた。だが、信之の将来を考えるとこのままにしておけない。
――ではどうすればいいの?
自問自答を繰り返すが、簡単に答えが出てくるはずもない。
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次