短編集45(過去作品)
今までのパートといえばスーパーなどが多かったせいもあってか、気忙しいのには慣れている。だが、喫茶店の方が人との会話が多く楽しい。入った頃などは常連さんからいろいろと教えてもらったものだ。
人と話すようになると、話題性に乏しい自分に気付いた。もっといろいろ話ができるつもりでいたが、お客さんは結構いろいろなことを知っている。もっとも喫茶店で話をするのだから、お客さんも話題をいつも探しているような人が多い。相槌を打って、着いていくのにやっとだった。
喫茶店の仕事は昼からだった。毎日ランチタイムというわけではなく、三日に一度くらいがランチタイムに入ることになる。そのためそれ以外は大体午後三時くらいからの出勤となるので、以前であれば、家事をゆっくりすませてから外出していた。
しかし、その頃は外出できることの楽しさを覚えたのに加え、少し教養を身につけないと話についていけないのが分かってきたので、本屋に寄ることが多くなった。
それまではあまり化粧もしなかったが、独身時代に戻ったような新鮮さからか、外出の際の身なりも少し明るくなった。それこそ大好きな赤を着ることもあれば、シックに黒や青でまとめることもある。
午前中に家事を済ませ街に出かけると、馴染みの店がすぐにできた。自分が喫茶店に入っているせいか、表から見ただけでその店がどのような雰囲気なのか、どんな人が客層に多いのかということまで分かるようになってきた。馴染みの店にいると、自分がされて喜ぶことを今度は自分がお客さんにしてあげたいという気持ちになってくるから不思議だった。
自分が「いい子」になったようで少し照れくさい。本当はそれほどいい子ではないと思っているが新鮮な気持ちになれるのは嬉しかった。馴染みの喫茶店でランチを済ませ、そのまま本屋へ向かうというのが、いつものコースである。
先日、本屋で見つけたのが、ミステリーだった。教養のある本を読む必要はサラサラない。喫茶店の常連もあまり物知りな女性を可愛いと思ってくれないだろうから、せめて話題になりそうなものを読んでおけばそれでいい。買ってきた本は文庫本で、作家は時々テレビなどで芸能活動もしている人だった。
ミーハーと思われるかも知れないが、それでもよかった。元々ミーハーがあまり好きではないやよいは、テレビ出演しているようなタレントを副業にしている作家の本は読む気もしなかった。
それまであまり本というものに触れていなかったやよいにとっての「入門編」のようなものである。
馴染みの喫茶店に着く頃には、すでにランチタイムのラッシュは過ぎていて、席もまばらに空いている。それもわざと時間をずらして行っているので、いつもの指定席には誰も座っていない。
その日も奥のテーブル席は空いていて、一人ゆっくり佇むことができる。昼下がりの読書時間にはちょうどいいのだ。
表通りといってもメイン道路ではないので、それほど人も車の量も多くはない。だが、それでもトラックなどが通り過ぎると地響きなどがあり、入り込んでいる本の中の世界から現実に引き戻される時間がある。それはそれで刺激的でいいかも知れない。
本を読み始めてから本の世界に入り込むまでに少し時間が掛かるが、入り込んでしまうと時間の感覚が麻痺して読みふけってしまう。時として出勤時間を忘れがちになりそうなところを、うまく現実に引き戻してくれるのだ。
やよいは、忘れっぽいところがある。特に喫茶店でパートを始めてからよく感じるようになった。
――あれ? 何だったかな?
としょっちゅう感じ、肝心なことすら覚えていないことも増えてきた。
どこかにメモしておけばいいのだろうが、どこにメモったかすら忘れてしまっているのだ。
――最悪じゃないか――
健忘症という意識がないだけに、自分が腹立たしい。忘れたいことだけを忘れるのならいいが、そう都合よくいくわけでもない。
本の中で出てくる主人公は男性が多い。女性を主人公にしたストーリーで、軽い気持ちで読めるものが少ないからだ。まるで昼のドラマを見ているような展開は、昼下がりの喫茶店で読む読み物ではないだろう。
本を読んでいると自分が主人公になったような気がする。男性になれるとしたら、本を読んでいて主人公になりきるイメージを浮かべる時だけなのに気付いた時、自分に男性願望があるのではないかと思えてきた。
男性的なところがあるのは以前から気付いていた。しかしそれは竹を割ったような性格で、いわゆる男勝りに近いイメージだった。ミステリー小説に出てくるような男性のキリッとしたイメージには程遠い感じがしていたのだ。
冬などは表が冷たいため、店内にいるだけでポカポカ陽気に誘われ、睡魔が襲ってくる。文庫本の小さな文字を見ていると、気がつけば頭の重みに耐えられなくなっていて、そのまま椅子から転げ落ちそうに感じてしまうほどだ。
時々眠ってしまっていたが、夢を見たのを何となく覚えている。どんな夢だったか覚えている時と覚えていない時とがあるが、夢の中に入り込むことが多かったように思う。
本の主人公になった夢を見ることもあっただろう。まるで少年のような気持ちを抱いているかのようで自分がまだ純粋な心を持っていると思えて嬉しくなってくる。
主婦に納まってからの自分は、純粋な気持ちなど忘れてしまっているようだ。
専業主婦をしていても、昼のドラマなどを見るのは嫌だった。主婦というものが陥るドロドロした可能性をドラマとして完成させ、主婦に感銘を与える。
それを見た主婦は一体どう感じるのだろう?
――私はそんなことのない主婦だから、安心してみていられる?
あるいは、
――陥りそうになっているから、他人事と思えない――
など、それぞれに考えがあるに違いない。
そんなことを考えている時点で、すでにやよいは純粋な心を失ってしまっていると思っていた。
そんな時、心の中に余裕を感じた。しかしその余裕が油断になるということを分かっていなかったのも事実である。あれだけ毛嫌いしていた昼のドラマ、いずれは見ることになるような気がしたのも夢の中でのことだっただろうか。
ある日の喫茶店、いつものように本を読んでいていつものように睡魔に襲われる。気がつけば眠っていて、その向こうにも同じように文庫本を広げて読んでいる男がいた。一瞬、
――自分かしら?
と思ったが、男になった夢を何度も見たような記憶がある。男勝りなところがあるからだが、正面で本を読んでいる男性に心の余裕のようなものを感じたのは気のせいではあるまい。
心の余裕というよりも、包容力といえばいいのだろうか。最近思い出さなければならないと思っていた女の部分が顔を出す。
――綺麗になりたい――
という部分よりも、どちらかというと
――恥じらいを持った大人の女性としての部分――
それは今までに感じたことのないようなものだった。
目の前の男性に見つめられ、頬が赤くなる。こんな気持ちはまだ男性と付き合ったことのない頃の純粋なものだが、それを思い出すことによって大人の女性を感じるというのも面白いものだと思う。
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次