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短編集45(過去作品)

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 そして次の段階で、将来にきっと思い出すと感じていることでしょう。それも皆さん同様だと思います。何しろ私も同じような感覚を持って、この作品集を作ったのだからですから……」
 しみじみ感じながら本を閉じた。
 本を読んでいると、電車の中で見た彼女の顔が浮かんでくる。
――どんな顔だったかな?
 思い浮かんでくるはずだった顔が、そう感じた瞬間に思い出せなくなっていた。不思議なことだが、今までにも同じような経験がある。
 余計なことを考えたために、思い出せるはずのものが思い出せなかったという経験は水沼氏だけではないだろう。小さな頃からの記憶を思い出そうとしている。
 都会の煙突から噴出す煙を見ていた頃、あまり深くものを考えていなかったように思っていたが、思い出してみると、絶えず何かを考えていたように思う。結論がすぐに見つかることだったので、それほど必死に覚えていないのかも知れない。
 例えば算数の数式のように、答えが一つしかなく、論理立てて考えればすぐに答えが出てくるようなもの、それであれば、個々を記憶していることはないだろう。
 確かに数式を思い浮かべるのが好きな少年だった。規則正しく並んでいるものをいろいろなパターンで数式として公式化していく。小学生だからこそ、その楽しさがあったのかも知れない。中学、高校と進むうちに、数式は完全に公式化されたものとして覚えさせられ、解を求めることさえできる柔軟な頭さえ身に着けておけばいいのだ。
 しかし、小学生の算数は、そこまでカッチリとしたものではない。どんな方法でもいいから、論理立てた式を用いて答えを出せばそれでいいのだ。一つしかない答えを求めるわりに、学問としての柔軟さを感じることから、算数が好きだった。
 しかし煙突を見ながら考えていたのは算数の公式ではなかった。もっと漠然としたもの、未来のようなものを見つめていたようにも思う。
――煙突から出て行く煙はどこに行くのだろう?
 そこから始まって、川から見える工場の大きさや、煙突までの距離が自分が考えているのと違っていることをずっと感じていたはずである。
 煙突から吐き出される煙が身体に悪いことは百も承知だ。なのにどうして身体に悪いところにわざわざ住まなければいけないのかという疑問も当然のごとく浮かんでくる。
 大人の世界を知らないのだから、それ以上追求しても仕方のないことだ。
――大人は自分たちよりたくさん生きているから大人なんだ――
 当たり前の理屈だが、たくさん生きているからこそ、子供よりも知識があり、判断力も優れている。
――大人に逆らってはいけない――
 という結論を持った子供だった。
 背伸びして大人のマネをしたがる友達が多かった。特に都会に住んでいる頃はそうだった。そのことは田舎に行けばいくほど感じる。大らかな気持ちが田舎の空気を通して伝わってくる。気持ちに余裕を持っているのだろう。
 都会の子供の中でも従順な子供だった水沼氏は、決して危ないことはしなかった。
――あまり必要以上のことを考えないようにしたい――
 という気持ちが強かったに違いない。余計なことを考え始めると、ろくな考えを持たないことを小学生の頃から分かっていたようだ。
 田舎に移り住んでしばらくは、まわりの大らかさに身を任せていればよかったが、気持ちに余裕を持てば持つほど油断してしまう。
 特に田舎の人は人当たりがよく、都会から来たというだけで、注目のまなざしだ。
 最初は、それがありがたかった。都会ではほとんどなかった近所付き合いというものを感じることができるからだ。母親もすっかり上機嫌で、昼間近所の人を家に招いては、いろいろ料理を振舞っていた。
 母親を見ていると、日に日に疲れが溜まっているようだ。気を遣うにも限度があることを母親よりも水谷氏の方が先に感じたのは。母親のやつれた顔を見たからだ。
 次第に近所の人もうちに寄らなくなってくる。母親は精神的な衰弱だけを残し、見捨てられたようだ。
 まわりはそんなことにはお構いなし。相変わらず自分たちのペースだ。母が普通に戻るまでに数ヶ月掛かった。たった数ヶ月なのかも知れないが、水沼氏にとっては、
――長かった数ヶ月――
 である。気を遣うという言葉、悪い意味でしか考えられなくなった瞬間だった。
――余計なことを考えてはいけない――
 その頃に教訓として思い知ったことである。
 高校を出てからの水沼氏は、大学に進学せずに、都会の会社に就職した。入社して最初の赴任地は、自分の育った街だったのは何かあるのだろうか。
 赴任してすぐにアパート暮らしとなった。会社が借りているアパートで、最初の半年は会社からの補助で生活ができる。ありがたいことだった。
 会社の借りているアパートから会社までは徒歩十分くらいだ。遠くもなく近すぎることもなく、ちょうどいいくらいだろう。赴任して最初は引越しなどで忙しかったが、落ち着いてみると知っている街のイメージから少し変わっているのに気付いた。もう十年以上も経っているのだから当たり前のことである。
――なぜ、すぐに気付かなかったんだろう――
 とも思ったが、その疑問はすぐに解決された。
――この街のシンボルでもある大きな工場がそのまま残っているからだ――
 毎日のように見上げた煙突、そしてそこから吹き出す黒煙、昔とちっとも変わっていないではないか。懐かしいような嬉しいような、水沼氏が例の土手に行ってみたくなったのは当然のことである。
 土手は昔のように残っていた。土手から見る煙突も絶えずモクモクと煙を吹き出していて、その大きさは、高くなるほど大きくなっていく。
 大きくなっていくというイメージよりも、煙の方から近づいているといった方が正解ではないだろうか。
 煙の向こうに空が見えてこないのは小さい頃と変わっていないが、どこかが違う気がして仕方がない。どこがどう違うのか分からないが、とにかく違う。じっと見ているとその気持ちはさらに大きくなっていき、気になってその場から離れられなくなった。
 とりあえずいろいろ考えてみる。
――煙の大きさだろうか? それとも煙の色がもっと黒かったかな?
 どれを考えても正解にも感じるし、間違っているようにも思う。
 時計が気になってくる。じっと見ていると、次第に風景が移り変わっていくようで、昔見た光景がどんな感じだったか分からなくなりそうだった。
――これはまずいな――
 忘れてしまっては気になっていることへの答えを失っていくようで困る。しかしこの場所にいないと分かるものではない。焦っているのはそんな気持ちの表れだった。
 腰を落ち着けて三十分くらい経っただろうか。記憶の中にある光景に近づいているのを感じるようになっていた。
――そうか、いつも同じ時間だったんだ――
 それに気付くと焦りはなくなり、記憶の中の光景がある程度固まってきた。さっきまで吹いていた風が次第に爽やかになってくる。いわゆる「凪」の時間である。
「凪」という時間について本で読んだことがある。
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次