表裏めぐり
見られている自分がそのことを知っているのに、相手は気付かれていることを知らない。まるでこちらを見るだけのために存在しているようではないか。
――もし私があちらの立場の自分だったら、どんな気がするだろう?
そう思うと、鏡を見るのも怖くなった。
ここまでは、小説の中の主人公の話だ。
つかさは主人公の立場になって読んでいるつもりだった。実際にここまでは間違いなく主人公になっていた。
そして、主人公の女の子はその頃からもう一人の自分が存在しているという妄想に駆られ、不安が抜けなくなってしまった。その思いはトラウマとなってしまったが、普段は慣れてきているのか、さほど恐怖を感じなくなっていた。
そのうちに、
――もう一人の自分が存在しているということは、別におかしなことではないんじゃないか?
と考えるようになった。
主人公は、もう一人の自分の存在は誰もが知っていることで、いまさら主人公が気付いただけではないかと思うようになった。それは自分の中にあるトラウマに対しての精一杯の抵抗だったのかも知れない。
もう一人の自分は、自分に対しては非力だが、その自分が困っていることがあれば、陰から助けることができる。自分にとっては実に都合のいい存在なのだが、それを知ってしまうと、その効力がなくなってしまうのではないかと思うようになっていた。
その感覚はおとぎ話の感覚に似ている。
「決して見てはいけない」:
あるいは、
「決して開けてはいけない」
と言われたことをしてしまうと、主人公にとって最悪の結末が待っていることになる。
それが浦島太郎のお話だったり、鶴の恩返しのお話だったりする。ソドムの村の話などは、その最たるものではないだろうか。
晴美と中学時代におとぎ話の話をした時のことを思い出していたが、その時すでにつかさは、竹下かなえのこの小説を読んでいた。その思いからあの時は自分の意見をしっかりと言えたのだと思っている。
また、晴美と話をした中での夢の共有の話や、同じ日を繰り返しているという話も竹下かなえが小説の中で書いていることでもあった。つかさは彼女の小説を思い浮かべながら話をしていたことを思い出し、彼女の小説を何度も読み返しながら、晴美と話をした時のことを思い出していたのだ。
つかさは、同じ本を何度も何度も読み返すことが多かった。同じ番組を何度も見るのを同じ感覚だが、番組と違って小説を読み返すことは、それだけではなく、発想に繋がっていく事実がどこかにあって、それを一緒に思い出すことで、発想を妄想に結び付けていたのだ。
以前、晴美と夢の共有の話や同じ日を繰り返している話をした時に感じた優位性という感覚、それも竹下かなえの小説を読んでいたから感じたものだったのだろう。
晴美も実はつかさと夢の共有や同じ日を繰り返すという話をしている時、春日博人の小説を思い浮かべていた。
晴美が春日博人の小説を好きで読んでいるというのは、その時から分かっていた。晴美も自分と同じように彼の小説を思い浮かべて話をしているのだということも分かっていた。
つかさは春日博人の作品をさほど読んだことはない。一度サラッと読んだことはあったが、その話をすぐに忘れてしまった。それはまるで目が覚めるにしたがって、夢の内容を忘れてしまっているかのような感覚だった。
しかし絶対的な違いは、
――夢の場合は、まだ見ていたいという内容の話を忘れていくのであって、春日博人の作品は、見ていたいと思わないから忘れてしまっていくんだ――
と感じていた。
それほどつかさには彼の作品は心の奥に響くものがないということだろう。だが、最近では少し考えが変わってきた。
――竹下かなえの小説を読んでいることで、春日博人の小説を否定しようとしている自分がいる――
と感じていた。
すると、今度は竹下かなえの小説を読んでいることで、その理屈が分かるような気がしてきた。
――彼女の小説の中に出てくるもう一人の私がいて、彼女はきっと春日博人の作品を自分のこととして吸収しながら読み込むことができるのではないだろうか――
と感じていた。
春日博人という作家について、つかさは否定をしているわけではない。しかし、竹下かなえの小説を読んでいると、彼女の小説の中に春日博人が含まれてしまうように思えてくるのだ。
下手をすると、
――春日博人なんて作家は、本当は存在しないんじゃないか――
とまで考えてしまう。
まるで二人の小説家が同化してしまったかのような錯覚を覚えた。
――別に作風が似ているわけではないのに――
と思うのにである。
だが、別の考えも生まれた。
――もし、最初に春日博人の作品に陶酔した人が、今度は竹下かなえの小説を読めば、どんな気分になるんだろう?
という思いだった。
その条件を満たしている人が、ごく身近にいるではないか、それが晴美であり、つかさは晴美に、
「竹下かなえの小説を読んでみなさいよ」
と言いたい気持ちになっているのも事実だった。
だが、なぜかつかさにはその「勇気」がなかった。
――勇気?
それほど大げさなものではないはずなのに、もし晴美が竹下かなえの小説を読んで、自分の中で竹下かなえの小説を否定する気分になったらどうしようと思うのだった。
もし否定されると、つかさの中では、
――晴美も私と同じような気持ちになれるのね――
ということで、晴美に対しての思いはさらに深まるのだろうが、逆の感情として、
――私が陶酔している竹下かなえを否定されると、今度は私を否定されているような気がする――
と感じた。
これも大げさなことだが、最近もう一人の自分の存在を気にし始めたつかさには、晴美によって竹下かなえを否定されることは、もう一人の自分を否定されるようで、それが怖かったのだ。
これは、今の自分を否定されるよりももっと怖い感覚で、鏡を見た時、そこには写っているはずの自分が写っていないということを示しているような気がするからだった。
ここでつかさの中によみがえってきた感覚は、
――晴美に対しての優位性――
という思いであり、その優位性を持つことができたのも、つかさの中でもう一人の自分の存在を認めている自分を信じているからだと感じていた。
その思いがあるから、つかさが竹下かなえの小説を読んでいるということを誰にも話していない。
それだけでは満足できず、自分があたかも国語や文章が嫌いで、苦手なのだという姿を回りに対して演じていたのだった。
だが、それがウソだということを最初に気付くことになるのは、やはり晴美だった。晴美が一番気付くには近い存在であるということは歴然としてはいたが、皮肉な感じであることも歴然としていた。実に不思議な感情である。
つかさが絵画に目覚めたのは、竹下かなえの小説の影響も大きかった。彼女の作品には絵画を思わせる作品がいくつかあり、彼女のプロフィールを見ると、学生時代には絵を描いていたという話も書かれていた。
彼女の作品で絵画を思わせるものとして、主人公が画家だという人が多かったり、絵画に結びつく発想があったりするのを見てそう感じた。